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6歳の父へ『あさちゃんと、約束の空』  作者: 水前寺鯉太郎


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第15話:ひまわりの咲く丘、約束の場所

第15話:ひまわりの咲く丘、約束の場所

2026年2月。東京地方裁判所で放たれた「無罪」という名の福音は、瞬く間に日本中を駆け巡った。それは単なる冤罪の解消ではなく、30年もの間、国家という巨大な装置がひた隠しにしてきた「不都合な真実」が、一人の娘の執念によって白日の下に晒された瞬間だった。

外はいつの間にか、2月の柔らかな夜に包まれていた。冬の星座が冷たく光る夜空の下、街の喧騒はどこか遠く、麻子の住むマンションのリビングだけが、止まっていた時間が動き出したような、不思議な静寂に満たされていた。

ソファで隣り合い、麻子はひかりにすべてを話し終えた。30年前のあの日、公園で何が起きたのか。パパがどんな思いで独房にいたのか。そして、及川おじいちゃんが何を守ろうとしてくれたのか。6歳のひかりには難しい法律の言葉は省いたが、愛と悲しみ、そして再会の物語として、麻子は言葉を紡いだ。

傍らでは、ひかりが父の形見である、もう色が褪せてあちこちが擦り切れた折り紙のコマを、小さな掌で包み込むように大切に握りしめていた。

「……おじいちゃん、ずっと『いい子』で待ってたんだね。ママに会えるのを、暗いところで、ずっと一人でお留守番して」

ひかりの声は、微かに震えていた。6歳の子供にとって、30年という歳月は永遠にも等しい想像を絶する時間だろう。自分の人生の5倍もの時間を、誰にも信じてもらえないまま、ただ愛する娘のために耐え続けた。その圧倒的な「純粋さ」を、ひかりは本能で感じ取っていた。

麻子は、ひかりの柔らかな髪を、かつて寛がしてくれたようにゆっくりと撫でた。

「そうだよ。おじいちゃんはね、世界で一番強くて、世界で一番長い『お留守番』をしていたの。ママがパパを助けられる大人になるまで、いつかお迎えに来てくれるって、一瞬も疑わずに信じて待っていてくれたんだよ」

麻子は立ち上がり、部屋の隅にあるクローゼットの奥から、使い古された黒いアタッシュケースを取り出した。中には、及川が遺した執念の資料、そして寛が獄中で、麻子が差し入れた黄色いクレヨンを使い切るまで描き続けた、大量のひまわりの絵が眠っている。その一番下、及川の遺品整理の際に見つけた、古びた小さな紙の包みを麻子は取り出した。

「ひかり。明日は、おじいちゃんのところへ行こう。パパとママが、昔、約束した場所へ。おじいちゃんを、本当の自由にしてあげなきゃいけないから」

翌朝。2月の冷たく刺すような空気の中にも、確実に春の胎動を感じさせるような、透き通った晴天だった。

麻子とひかりは、数回の乗り換えを経て、埼玉県の外れにあるなだらかな丘を目指した。かつて二人が暮らした「ひだまり荘」があった場所から、線路沿いを歩いて30分ほどの場所にある、地元の人にしか知られていない小さな丘だ。

1997年、あの忌まわしい事件が起きるわずか数日前。寛は幼い麻子の手を引き、この丘に登ったことがあった。

『あさちゃん、見て! ここ、夏になるとね、ひまわりさん、いっぱい咲くんだよ。パパ、あさちゃんがもっと大きくなったら、ここでお弁当食べるの。コロッケ、いっぱい持ってこようね』

父が眩しそうに目を細めて指差したその景色は、30年の時を経てもなお、麻子の脳裏に鮮やかな色彩を伴って蘇る。あの日の空の色、父の大きな手のひらの温もり、そして、未来を夢見ていた穏やかな声。

丘の頂上に着くと、そこには整備された小さな公園が広がっていた。冬の今は、花壇に彩りはない。枯れた芝生が風に揺れているだけだ。けれど、麻子にははっきりと見えた。大きな手で自分を高い高いと抱き上げ、ひまわりのような満面の笑みを浮かべていた父の姿が。

麻子は、昨日持ち出した包みを開けた。中に入っていたのは、数粒の「ひまわりの種」だった。

それは、寛が死刑執行の直前まで独房の隅、わずかに差し込む光を頼りに育て、及川が周囲の目を盗んで、父の「最期の形見」として回収し、今日まで繋いでくれたものだった。

「ひかり。ここに、おじいちゃんの宝物を植えよう」

「うん、ひかりがお手伝いする!」

二人は冷たい土を指で掘り、一粒ずつ、祈りを込めるように丁寧に種を埋めていった。

「ねえ、ママ。おじいちゃん、寂しくないかな? ずっと一人でお留守番してたから」

ひかりがふと手を止め、不安そうに高く青い空を見上げた。麻子は、ひかりの隣に静かに膝をつき、同じ目線で空を見つめた。

「寂しくないよ。だって、おじいちゃんは今、本当の自由になったんだから。あのお城みたいな高い壁も、冷たい鉄格子も、重い扉も、もうどこにもない。おじいちゃんは今、風になって、お日様の光になって、こうしてずっと私たちのことを見守ってくれているんだよ」

その言葉が終わると同時だった。

一陣の柔らかな風が、丘を吹き抜けた。枯れ草がカサカサと歌うように音を立て、二人の頬を撫で、ひかりの髪をふわりと揺らす。それはあまりにも優しく、慈愛に満ちた感触だった。まるで、寛の大きな手が、30年の沈黙を破って二人の背中を愛おしそうに撫でていったかのように。

「あ……ママ、今、おじいちゃんが笑った気がする! 『いいこだね』って、言ってくれたみたい」

ひかりが驚いたように目を輝かせ、空に向かって小さく手を振った。

麻子もまた、同じ確信を抱いていた。胸の奥底に、30年間ずっと鉛のように冷たく居座っていた重みが、暖かい光に溶かされるようにスッと消えていく。弁護士という硬い鎧を纏い、歯を食いしばって国家という壁に挑み続けてきた麻子の心が、ようやく、ただの「パパが大好きな娘」へと戻った瞬間だった。

麻子は立ち上がり、丘の下に広がる街並みを静かに見渡した。

あの日の事件現場、及川と段ボール越しに密会した拘置所の跡地、そして、自分が全人生を賭けて戦い抜いた法廷のある方向。

すべては、過去になった。

警察庁長官という権力の座を追われた神崎は、無罪判決の翌日から、かつての証拠捏造と職権濫用の疑いで徹底的な追及を受けていた。かつての部下たちも次々と口を割り、彼が築いた「偽りの正義」の塔は今、無惨に崩壊しようとしている。国家という巨大な力に挑んだ一人の娘の戦いは、司法の在り方、そして「正義」とは誰のためにあるのかという問いを、日本中に突きつけた。

けれど、麻子にとって大切なのは、法廷での勝利でも、権力者の没落でもなかった。

父が最期に残した「いい子でお留守番しててね」という言葉に、ようやく自分の人生をもって「ただいま、パパ。私、頑張ったよ」と答えられたこと。父が信じた自分の「正義」が、間違いではなかったと証明できたこと。

それが、彼女のこれまでの苦難に満ちた人生の、すべてを肯定する答えだった。

「パパ。私、お留守番、ちゃんと頑張ったよ。……少しだけ長くなっちゃって、ごめんね。でも、やっと迎えに来られたよ」

麻子の目から、静かに、一筋の涙がこぼれ落ちた。それはもはや、悲しみや悔しさの涙ではない。再会の喜びと、深い安堵。そして、父をようやく光の下へと連れ出すことができたという、娘としての誇りの涙だった。

空はどこまでも高く、どこまでも澄み渡っていた。

30年前、あの日ひだまり荘のベランダから見上げた空と、全く同じ色がそこにはあった。

「ママ、おなかすいた! おじいちゃんがお空から見てるなら、ひかり、美味しいもの食べるところ見せたいな。コロッケ、食べたい!」

ひかりが麻子のコートの裾をぐいぐいと引っ張り、満面の笑みを見せる。その仕草、その瞳、その屈託のない明るさは、1997年のあの夏の日に、父が守り抜こうとした麻子そのものだった。

麻子は涙を拭い、ひかりと同じ、世界で一番幸せな笑顔で答えた。

「そうだね。おじいちゃんも大好きだった、お肉屋さんの揚げたてのコロッケを買って帰ろう。今日は特別だよ。おじいちゃんのぶんも、及川のおじいちゃんのぶんも、たくさん買わなきゃね」

二人は手を繋ぎ、早春の光に照らされた丘をゆっくりと下り始めた。

ひかりの足取りは羽が生えたように軽く、その弾むような後ろ姿を、麻子は愛おしそうに見守る。

丘の土の下では、植えたばかりの小さな種たちが、土の温もりを感じながら静かに目覚めの時を待っている。

あと数ヶ月もすれば、この丘は一面の黄色いひまわりで埋め尽くされるだろう。

誰の目も気にせず、過去の呪縛に囚われることもなく、ただ純粋に、高く輝く太陽だけを見つめて背を伸ばす花たちが。

それは、松山寛という一人のあまりにも純粋すぎた男が、命を賭けて娘に遺した「愛」という名の景色。

そして、麻子という一人の戦い抜いた娘が、亡き父に贈った「自由」という名の証明。

30年の時をかけた、世界で一番切なくて、世界で一番温かい父と娘の物語。

その激動の歴史は、ここで一つの完璧な終止符を打つ。

けれど、二人の絆は、ひかりへと、そしてその先の世代へと、ひまわりの種が風に乗って世界中に運ばれるように、永遠に続いていく。

冬の終わりの柔らかな光が、手を取り合って歩く親子の背中を、まるで祝福するように、いつまでも温かく、力強く照らし続けていた。

ひまわりの花言葉は「私はあなただけを見つめる」。

その言葉通り、父は娘を、娘は父を、30年の闇の中でも見失うことはなかったのだ。

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