第14話:30年目の決着
第14話:30年目の決着
2026年2月13日。
立春を過ぎてもなお、東京の空には身を切るような冷たい風が吹き荒れていた。しかし、東京地方裁判所104号法廷の内部は、日本の司法史が根底から覆る瞬間を目撃しようとする傍聴人と報道陣によって、肌を焼くような熱気に包まれていた。
「証人、前へ」
裁判長の厳かな声に導かれ、杖を突き、一歩一歩踏みしめるようにして証言台に立ったのは、かつて警察庁長官として絶大な権勢を振るった神崎だった。80歳を越え、白髪に覆われたその姿は一見、枯れた老人のようだが、眼光だけは依然として鋭く、全身からは「国家の正義を司ってきた」という傲慢なまでの自負と、犯しがたい威圧感を漂わせている。
弁護団席から、一人の女性弁護士が静かに、しかし決然と立ち上がった。
松山麻子。30年前、夕暮れの公園で父を奪われた6歳の少女は、今、一人の弁護士として、父を死の淵へと追い詰めた男の正面に立っている。彼女の手には、養父・及川から託された、死者たちの執念が詰まったアタッシュケースが握られていた。
「神崎証人。あなたは2005年、死刑確定囚であった松山寛に対し、法的な根拠が極めて乏しい中、異例とも言える再取調べを指示しましたね?」
麻子の声は、澄み渡る冬の鈴の音のように法廷に響いた。
「……治安維持のためだ。凶悪犯が再審などという戯言を弄して社会を混乱させ、遺族の感情を逆撫でするのを防ぐのは、トップとしての私の責務だった」
神崎の声は、30年前と変わらず冷酷で、一切の迷いを感じさせなかった。彼にとって、松山寛という存在は、自分の「正義」を完成させるための単なるパズルの一ピースに過ぎないのだ。
「では、神崎証人。その『責務』の中には、知的障害を持つ被告人を密室で暴力的に脅し、最愛の娘の幸せを人質に取って、事実とは異なる嘘の自白を強要することも含まれていたのですか?」
「失礼な。そんな野蛮な事実は存在しない。彼は自らの罪を認め、悔悟の念から署名したのだ」
神崎が鼻で笑い、傍聴席を見渡して余裕を見せたその瞬間、麻子はポケットから一台の古いテープレコーダーを取り出し、高く掲げた。
「では、この『声』をお聞きください。これは、あなたが『存在しない』と断じた、あの取調室の、血を吐くような真実です」
再生ボタンが押される。
一瞬のノイズの後、静まり返った法廷に響き渡ったのは、神崎自身の冷徹な指示と、そして、あの日火の中で及川を救ったはずの、優しい父の泣き叫ぶ声だった。
『……認めろ。お前が認めれば、あの子は自由になれる。お前が認めないから、麻子ちゃんは一生、人殺しの娘として石を投げられるんだぞ!』
『パパが……パパがやったって認めれば、あさちゃん、ニコニコになれる……? パパが悪い子になれば、あさちゃん、助かるの……?』
それは、父が自分を愛するがゆえに、自ら死刑台への階段を上る決意をした瞬間。娘の「ニコニコ」を守るために、己の命を差し出した、世界で最も悲しい愛の記録。
傍聴席から、悲鳴に近いどよめきが上がった。記者たちは狂ったようにペンを走らせ、神崎の顔はみるみるうちに土気色へと変わった。杖を持つ彼の手が、ガチガチと激しく音を立てて震え始める。
「これは……捏造だ! 違法収集証拠だ! こんなものは証拠にならない!」
神崎が取り乱して叫ぶ。しかし、麻子は攻撃を緩めなかった。
「いいえ、証拠はこれだけではありません。最新の法医学鑑定により、美咲ちゃんの転落は、第三者の介在がない不運な事故であったことが再検証されています。そして、及川課長が命を懸けて記録し続けた、松山寛の『善行』の数々。彼は、死刑確定後も、自らを虐げた看守を火の中から救い出した。神崎証人、あなたにそれができますか?」
麻子の声が、法廷の天井を突き抜け、壁に反響し、神崎を包囲していく。
「あなたは、自分の愛する者を失った悲しみを、自分より弱い者、抗えない者、そして何より無実の、心優しき6歳の男にぶつけた。それは『正義』ではなく、ただの卑劣な復讐であり、国家によるリンチです!」
麻子の瞳から、熱い涙が溢れ出した。しかし、その言葉は一度も淀まず、一度も折れなかった。
「父、松山寛は、執行のその瞬間まであなたを恨みませんでした。火事の中で人を助け、不当な独房でひまわりの絵を描き、最期まで『いい子』でいようとした。死刑台に上がるその瞬間まで、私がお留守番を頑張れるように、怖くないふりをして笑ってみせたんです!」
麻子は証言台の神崎を一喝した。
「あなたが殺したのは、凶悪犯ではない。世界で一番純粋な、私の親友……私の『6歳の父』だったんです!」
神崎は、崩れ落ちるように椅子に深く沈み込み、震える手で顔を覆った。30年間、彼が強固に築き上げてきた「偽りの正義」という名の城壁は、一人の娘が捧げた「真実」という名の焔によって、音を立てて崩壊していった。
数時間後の午後。
裁判長が、震えるような声で主文を読み上げた。
「……よって、被告人・松山寛は、無罪。当時の自白は強要によるものであり、新証拠に照らせば、犯行は不可能であると断定する」
その瞬間、30年間凍りついていた時間が、法廷内の嗚咽と歓喜の渦の中で、一気に溶け出した。
麻子は深く、深く頭を下げた。視界が涙で滲み、足元の冷たい床タイルの模様が、まるで満開に咲き誇るひまわりの花びらのように見えた。
(パパ……終わったよ。やっと、お迎えにこれたよ……。長いお留守番、本当にお疲れ様)
法廷を出た麻子は、記者たちのフラッシュを浴びながらも、一度も立ち止まらず、冬の柔らかな日差しの中へと歩みを進めた。
彼女は真っ直ぐに、家へと向かった。
アパートの玄関を開けると、そこには、かつての自分と同じ6歳になった娘、ひかりが待っていた。
「ママ、おかえり! コロッケ、買ってきた?」
麻子は、ひかりを力いっぱい抱きしめた。
「うん、買ってきたよ。パパが好きだった、一番美味しいコロッケだよ」
あの日、父が果たせなかった「コロッケを買って帰る」という、当たり前で、何よりもかけがえのない日常。
そして、無惨に奪われた父の尊厳。
麻子は、それを今日、本当の意味で取り戻した。
テーブルの上には、あのボロボロになった折り紙のコマが置かれている。
窓の外には、冬の寒さに耐えながらも、次の春に芽吹く準備を整えた土が広がっていた。
あの日、段ボールの中で、泣きながら交わした約束。
「私がパパを迎えに行く」という無謀な少女の誓いは、2026年の今日、最高の形で果たされたのだ。
「パパ……明日からは、ずっと一緒だよ」
30年ぶりに、麻子の心に本当の太陽が昇った。
空高くには、父の笑顔のような、輝く「ひまわり」が揺れているような気がした。




