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6歳の父へ『あさちゃんと、約束の空』  作者: 水前寺鯉太郎


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第13話:託された遺言

第13話:託された遺言

2021年、冬。

東京の街を凍てつくような北風が吹き抜け、高層ビル群の隙間に重苦しい灰色の雲が居座っていた。

かつて東京拘置所の刑務課長として、松山寛を「死刑囚」として管理し、後に身寄りのない麻子を養子として引き取り育て上げた及川は、都内の病院のベッドで、静かにその最期の時を迎えようとしていた。

かつて「鉄面皮」と恐れられた厳格な刑務官の面影は、そこにはない。病魔に蝕まれ、痩せ細った体で浅い呼吸を繰り返す老人の姿。しかし、酸素マスクの下から覗くその瞳だけは、30年近く抱え続けてきた「執念」と「贖罪」の念で、かつての鋭さを失わずに光っていた。

「麻子……こっちへ、来い」

30歳になった麻子が、及川の枕元に歩み寄った。彼女は今や、数々の困難な訴訟を勝ち抜いてきた鋭敏な弁護士としての顔を持っていたが、この瞬間だけは、かつて段ボールの中で震えていた一人の娘に戻っていた。

及川は、点滴の繋がれた震える手で、ベッドの脇に置かれた古びた、角の擦り切れた黒いアタッシュケースを指差した。

「中を見ろ。……それが、私が人生のすべてをかけて隠し通してきた、お前の……そして松山寛の『武器』だ」

麻子が震える手でケースの鍵を開けると、そこには驚くべきものが詰まっていた。

数本の年季の入ったカセットテープ、黄ばんだ大量の内部調査報告書、そして2005年当時の日付が記された「極秘」の朱印が押された資料群。

「これは……まさか、2005年の、あの再自白の時の……?」

麻子の問いに、及川は深く、そして苦しげに頷いた。

「神崎のやり方は……あまりに非道だった。法を司る者が、法を汚したのだ。私はあの時、自らの地位と命を捨ててでも止めるべきだった。だが、私にできたのは……規律を破って取調室の集音マイクを裏から回し、その音声を隠匿することだけだった。……松山寛が、なぜ二度目の自白をしたのか。その『真実』のすべてが、ここにある」

麻子が震える指でポータブルレコーダーの再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの音の中から、懐かしい、そして悲痛なまでに優しい父の声が漏れ聞こえてきた。

『パパが……パパがやったって認めれば、あさちゃん、ニコニコになれる?』

『そうだ。お前が認めれば、あの子は自由になれるんだ。お前が我慢すれば、あの子はもう石を投げられない』

捜査官たちの冷酷な誘導。そして、その背後で糸を引く神崎の影。

父が、自分を愛するがゆえに、自ら死刑台への階段を上ったという、あまりにも残酷で、あまりにも尊い愛の証拠が、デジタルの波形となって麻子の耳を打った。麻子は溢れ出す涙を拭おうともせず、その録音を聞き続けた。父は、死の瞬間まで、娘を救うことだけを考えていたのだ。

「……それだけではない」

及川は激しく咳き込み、胸を押さえながら続けた。

「ケースの底を見ろ。……私が私費を投じ、元警察の鑑識官や民間の権威ある法医学者に依頼して作成した、美咲ちゃんの再調査資料だ。当時の警察は、神崎の圧力によって『無理やり突き落とされた』という前提の報告書しか作成しなかった。だが、その資料には、現場に残された彼女の靴の微細な擦れ跡、そして地面の斜面の角度から、それが『不運な転落事故』であったことが物理的に証明されている。彼女は、足を滑らせただけだったのだ。寛さんは……倒れた彼女を、本当に助けようとしただけだったんだ」

及川は、麻子の手を、骨が浮き出た強い力で握りしめた。

「麻子。私は国家の番人でありながら、一人の無実の男を、救いようのないほど優しい男を……死なせてしまった。私は、人殺しの片棒を担いだのだ。……この罪は、地獄へ行っても償いきれないだろう。だが、お前なら……お前なら、止まった時計の針を動かせるはずだ。死者の尊厳を、取り戻せるはずだ」

「お父さん……」

麻子は、自分を実の娘のように育て、そして実の父のために人生を投げ打って証拠を拾い集めてくれた養父の手を見つめた。

及川は、神崎という警察庁の頂点、そして今や政界にまで影響力を持つ巨大な怪物を敵に回して、この資料を30年近く守り抜いてきた。それがどれほど孤独で、いつ暗殺されてもおかしくない恐ろしい戦いだったか。弁護士となった今の麻子には、その重みが痛いほど理解できた。

「……これを持って行け。そして、寛さんに……パパに、伝えてくれ。……及川が、遅くなってすまなかったと言っていたと」

その数日後、及川は麻子に看取られながら、静かに息を引き取った。

彼の最期の表情は、長年の重荷から解き放たれたかのように、穏やかだったという。

葬儀を終えた麻子は、冷たい雨が降りしきる墓地で一人、黒いアタッシュケースを胸に抱きしめて立っていた。

30年前、夕暮れの公園で幼い少女を助けようとした「6歳の心を持つ父」の無垢な愛。

及川が、一刑務官として、一人の人間として、命を削って守り抜いた「真実の欠片」。

それらが今、麻子の手の中で重なり合い、巨大な国家権力を打ち砕くための、一振りの光り輝く剣へと変わっていく。

「パパ、聞こえる? もうすぐだよ。もうすぐ、お留守番が終わるよ」

麻子は空を見上げた。雨粒が頬を伝うが、その瞳にはもう迷いはない。

「誰も見たことのない、一番眩しい『ひまわり』を、私が見せてあげる」

2021年、秋。

松山麻子弁護士は、東京高等裁判所に対し、松山寛の再審請求を正式に申し立てた。

標的は、警察庁を退職し、今や与党の有力議員の背後で「国家の守護神」と崇められる政界の黒幕・神崎。

30年の歳月を経て、父の尊厳を、父の笑顔を、そして踏みにじられた正義を取り戻すための「最後の審判」。

その幕が、ついに切って落とされた。

麻子の手にあるアタッシュケース。そこには、死者たちの遺志と、生きる者の執念が、火花を散らして眠っている。

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