第12話:最後の、お留守番
第12話:最後のお留守番
2006年12月の朝、空気は肺の奥まで凍りつくほどに澄み渡っていた。
東京拘置所の高い壁に囲まれた中庭。その片隅に、かつて麻子が面会時にこっそりと種を落としていった「冬のひまわり」があった。それは季節外れに細々と咲き、今ではすっかり枯れ果てて、真っ白な霜に包まれている。
独房の重い鉄扉が開く音が、静まり返った廊下にいつもより鋭く、暴力的なまでに響き渡った。
寛は、いつものように壁に向かって座り、麻子のことを考えていた。彼の囚人服のポケットには、もう芯がすり減り、色がほとんど出なくなった黄色いクレヨンが一本だけ入っている。それが、彼にとっての「あさちゃん」との細い繋がりの証だった。
「松山寛。……出室だ」
看守の低く、抑えられた声。寛はその言葉の響きに、本能的な何かを察した。
かつて及川課長が「松山、いつか長いおうちに帰る日が来るかもしれない」と話してくれたことがあった。寛にとって、それは死の宣告ではなく、ようやく「お留守番」が終わる合図のように聞こえたのだ。
「あ……パパ、おうちに帰るの? あさちゃん、門のところで待ってる?」
看守たちは答えなかった。ただ、数人がかりで静かに、しかし抗いようのない力で寛の両腕を取った。廊下を歩く寛の足取りは、死刑台に向かう囚人のそれとは程遠い。まるで、待ちに待った遠足に出かける子供のように危なげで、純粋な期待に満ちていた。
しかし、この非情なルーチンの中に、及川課長の最後にして最大の、人生を賭けた独断が用意されていた。
「執行前に……娘さんとの特別面会を許可する。時間は5分だ」
案内されたのは、通常のアクリル板がない、冷たい長机だけが置かれた特別な面会室だった。
そこに、15歳になった麻子が立っていた。
中学3年生。大人びた紺色の制服に身を包み、震える膝を必死に押さえつけながら、彼女は父を待っていた。及川から「今日だ」という緊急の連絡を受け、学校を飛び出して駆けつけたのだ。
扉が開いた瞬間、麻子は悲鳴に近い声で叫んだ。
「パパ!」
寛は、そこにいる少女が、自分の記憶の中の「6歳のあさちゃん」よりもずっと大きく、美しい女性に近づいていることに驚き、目を白黒させた。
「あさちゃん? ……わあ、あさちゃん、背が高くなったね。ひまわりさんみたいだ。すごいねえ」
寛の顔には、これから自分が命を奪われる恐怖など微塵もなかった。ただ、最愛の娘に再び会えた喜びだけで、顔いっぱいに皺を寄せて笑った。
麻子はたまらず駆け寄り、父の大きな胸に飛び込んだ。
看守たちは、及川の無言の圧力に押されるように、今日だけはこの「規則違反」を見逃した。及川もまた、溢れそうになる涙を堪え、入り口に背を向けて立っていた。
「パパ、ごめんね。私、まだ子供で、パパを助けられなかった……。パパ、行かないで。もっと、もっと一緒にいたいよ」
麻子の涙が、寛の冷たい囚人服を濡らす。彼女は分かっていた。この5分間が、この世で父の体温を感じられる最後の時間であることを。
寛は、火傷の痕が残る不器用な手で、麻子の頭を優しく撫でた。あの日、ひだまり荘の狭い部屋で毎日してくれたのと同じ、慈愛に満ちた手つきだった。
「あさちゃん、泣かないで。パパね、ずっと『いい子』にしてたよ。あのおじさんたちが言うこと、全部『はい』って言ったの。そうすれば、あさちゃんがニコニコになれるって聞いたから。パパ、がんばったんだよ」
麻子は心臓を素手で握り潰されたような衝撃を受けた。
2005年、父が再び嘘の罪を認めた理由。それは神崎長官たちの拷問に屈したからでも、心が折れたからでもなかった。ただ、「そうすれば娘が救われる」という悪魔の囁きを信じ込んだ、父のあまりにも無垢で無償の愛ゆえだったのだ。
「パパ……嘘をつかせちゃってごめんなさい。パパは何もしてないのに。世界で一番、優しいパパなのに……!」
「あさちゃん」
寛は、ポケットから大切に守り続けてきた、あのボロボロになった「折り紙のコマ」を取り出した。そして、それを麻子の震える掌の上にそっと乗せた。
「これ、あさちゃんに返すね。パパ、もうおうちに帰るから。あさちゃんは、ここでお留守番してて? また明日、パパ、お肉屋さんでコロッケ買って帰るからね。晩ごはんに食べようね」
寛の中では、今もあの1997年の夏の日が続いている。
スーパーへ買い物に行き、娘の大好きなコロッケを抱えて、夕暮れの道を帰る。その当たり前の日常に戻るだけなのだと、彼は最後まで信じていた。死刑台への階段は、彼にとって「ひだまり荘」への階段と同じだった。
「パパ……約束だよ」
麻子は声を震わせ、溢れ出す涙を拭うこともせず、父の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「いつか、私がパパを本当のおうちに連れて帰る。どんなに時間がかかっても、世界中の人がパパを悪い人だって言っても、私だけはパパの味方だから。……だから、待ってて。必ず、必ず私がパパを迎えに行くから」
「うん。パパ、待ってる。あさちゃん、大好きだよ。世界で一番、大好き」
「……時間だ」
看守の声が、鉄の切っ先のように冷たく響いた。
寛は名残惜しそうに、けれど娘を安心させるような満面の笑みを浮かべて、麻子の手を離した。
「あさちゃん、バイバイ。いい子でお留守番しててね」
白い布を頭から被せられ、連行されていく父の背中。
麻子は、その場に崩れ落ち、声を上げずに泣いた。拳を床に打ち付け、血が滲むほどに唇を噛んだ。
父が向かう先は、闇ではない。
自分との「再会」という約束を守るための、果てしなく遠い、静かな待ち合わせ場所なのだ。
数十分後。
拘置所の高い煙突から、冬の青い空に向かって、一筋の灰色の煙が上った。
15歳の麻子は、建物の外で凍えながら空を見上げ、掌の中の古びたコマを壊れるほど強く握りしめた。
「パパ……今、そっちへ行く準備を始めるから。30年、待ってて」
同じ時刻。
警察庁長官・神崎は、執務室で高級なブランデーのグラスを傾け、宿敵の「始末」を祝う祝杯を挙げていた。
「これでようやく、あのゴミも消えた。正義はなされたのだ」
しかし、神崎は知らなかった。
一人の少女の心から、子供としての温もりが完全に消え、その空いた穴に、鋼のような執念と「法の焔」が宿ったことを。
松山寛を「死」によって葬ったつもりでいた国家権力は、その瞬間、自らを滅ぼす最強の敵を産み落としていたのである。
物語は、ここから2026年へ――。
かつて「殺人犯の娘」として蔑まれた少女、松山麻子。
彼女は今、一振りの「法」という剣を携え、死せる父の無実を証明する「再審」という名の戦場に立っている。
30年前のひまわりの種が、ついにコンクリートを突き破り、真実という名の花を咲かせる時が来たのだ。
「裁判長。……松山寛は、無実です。私はそのことを、証明するためにここに来ました」
2026年、春。
法廷に響く麻子の声は、あの日の父の大きな掌のように、強く、温かく、そして揺るぎなかった。




