第11話:巨大な壁
第11話:巨大な壁
2005年、夏。
事件から8年が経過し、世間からはあの「埼玉県幼女殺害事件」の記憶が薄れつつあった。しかし、東京拘置所の奥深くで、一人の男を巡る運命は、かつてないほど巨大で冷酷な壁に衝突しようとしていた。
その壁の名は、警察庁長官・神崎。
組織の頂点に君臨し、「日本の治安の守護神」と称えられる男である。しかし、彼がこの事件に対して見せる執着は、公的な正義感を超えた、どす黒い私怨に根ざしていた。
1997年のあの夕暮れ、命を落とした美咲ちゃん――彼女は、神崎が実の娘のように目をかけていた親友の遺児だった。神崎にとって、松山寛は単なる容疑者ではない。平穏な日常を、そして愛すべき幼子の未来を無惨に引き裂いた「知能の低い獣」であり、生かしておくことさえ許しがたい不浄な存在だった。
「あんな男は人間ではない。社会の循環から永遠に抹殺されるべきゴミだ」
神崎の執務室の机には、及川が提出し続けていた寛の「拘置所内での良好な素行調査報告書」や「火災時の英雄的行動」の記録が山積みにされていた。及川課長が再審の機運を高めようと奔走していることは、警察組織の耳目を通じて神崎に筒抜けだった。
寛が「聖者」として扱われ、司法の判断が揺らぐことなど、神崎のプライドと復讐心が許さなかった。彼は自らの巨大な権力を静かに、しかし確実に発動させた。
2005年、ある曇天の午後。
及川課長の計らいで行われていた「段ボールの中の秘密の面会」が、ついに暗転する。
神崎は「矯正施設の保安体制に関する特別監査」を名目に、拘置所内に直属の精鋭捜査官たちを送り込んだ。及川の手が届かない、別棟の地下にある窓のない取調室。そこへ、寛は引きずり出された。
「松山寛。久しぶりだな。お前、本当は分かっているんだろう? あの小さな首を絞めた時の、あの柔らかい感触を」
冷たい蛍光灯の下、冷酷なベテラン捜査官・黒岩が寛を覗き込んだ。及川のような慈愛に満ちた看守の目はそこにはない。あるのは、8年前のあの悪夢の再来だった。
寛は、パイプ椅子の上で体を二重に折り曲げるようにして震えていた。
「ちがう……パパ、助けようとしただけ。いたいいたいの、してたから……」
「まだそんな嘘を吐くのか! あの時の自白を忘れたか!」
ドスン、と机を蹴る鈍い音が響き、寛は短い悲鳴を上げて床に転げ落ちた。
言葉の通じない、精神年齢6歳の男に対し、神崎の指示を受けた男たちは容赦がなかった。物理的な暴力だけではない。彼らは「精神の破壊」を目的にしていた。数日間、不眠不休で立たせ続け、絶え間なく罵声を浴びせる。寛が愛する「あさちゃん」という名前を、嘲笑と共に何度も汚す。
「あさちゃん……あさちゃんに、会いたい……」
寛が床に這いつくばり、涙と鼻水にまみれて呟くと、黒岩は冷笑を浮かべて寛の耳元で囁いた。
「いいか、寛。お前がこうやって罪を認めない限り、麻子ちゃんは一生『人殺しの娘』として、世間から指を差されて、石を投げられて生きるんだ。お前が潔く認めれば、あの子は自由になれる。『お父さんは罪を認めて償った』と、世間に顔を向けて歩けるようになるんだ。お前はあの子を不幸にしたいのか?」
その言葉は、寛の最も柔らかく、最も大切な部分――娘への愛という名の急所を、正確に撃ち抜いた。
寛の混濁した意識の中に、麻子の泣き顔が浮かぶ。自分のせいで、あさちゃんが悲しんでいる。自分のせいで、あさちゃんがニコニコできなくなっている。
「パパが……パパがやったって、認めれば、あさちゃん、ニコニコになれる?」
「そうだ。それが父親としての、最後で唯一の愛情だ。お前は『いい子』になりたいんだろう?」
ボロボロになった寛の前に、一枚の書類とペンが置かれた。
そこには、神崎が用意した完璧な「悪のシナリオ」が記されていた。美咲ちゃんを誘い出した動機、殺害に至るまでの詳細な暴行内容、そして「自分のような怪物は極刑に処されるべきだ」という、6歳の寛には到底書けるはずのない、歪な反省の言葉。
寛は、火傷の痕が残る震える手で、ペンを握った。
漢字も読めない。意味も分からない。ただ、これを書けばあさちゃんが助かる。あさちゃんがニコニコ笑える。
その一心で、彼は己の死刑執行を早めるための「二度目の偽りの署名」を、紙に刻みつけた。
この「2005年の再自白」は、司法界に衝撃を与えた。
及川課長がコツコツと積み上げてきた、寛の純粋さを根拠とした再審への希望は、一瞬にして瓦礫と化した。
「松山……なぜだ! なぜ認めたんだ!」
拘置所の廊下で、及川の悲痛な叫びが響いた。しかし、独房に戻された寛には、その声はもう届かない。
寛は暗い独房の隅で、麻子からもらったボロボロのコマを抱きしめ、「あさちゃん、パパ、いい子にしたよ……パパ、がんばったよ……」と、虚空を見つめてうわ言のように繰り返すだけだった。
神崎は警察庁長官室の椅子に深く腰掛け、届けられた「再自白調書」を満足げに眺めていた。
「これでいい。この男は、二度と太陽の光を見ることはない。正義は、私の手で完成された」
数日後。
14歳になった麻子は、及川からの緊急の連絡を受け、土砂降りの雨の中、待ち合わせの喫茶店に駆け込んだ。
及川のやつれた顔を見た瞬間、彼女の背筋に凍りつくような悪寒が走った。
「パパが……また自分がやったって、言ったの?」
麻子の震える声に、及川は深く、重く頷いた。
「すまない、麻子ちゃん……。私がついていながら、神崎の差し金に屈してしまった。あれは拷問に等しい取り調べだったはずだ。だが、形式上は『自発的な自白』として受理されてしまった。これで再審の道は、ほぼ閉ざされたと言っていい」
崩れ落ち、椅子から滑り落ちそうになる麻子。
周囲の客が不審な目で彼女を見る。だが、麻子の瞳の奥に宿ったのは、絶望の涙ではなかった。
(パパは、私のために嘘をついたんだ。パパが自分の命を捨ててまで、私を守ろうとしたんだ)
麻子は、膝の上で拳を握りしめた。爪が食い込み、血が滲む。その痛みが、彼女の魂を極限まで研ぎ澄ませた。
父が自分のために「二度目の嘘」を被らされた2005年。
麻子は、少女としての甘えを、そして弱さをすべて捨てた。
「神崎……」
彼女は、警察庁長官という国家権力の頂点に君臨する男の顔を、脳裏に刻みつけた。
父の純粋な心を壊し、その無垢さを利用して死に追いやろうとする男。
その男を、法律という正義の剣で、引きずり降ろす。
たとえ、それが神に挑むような無謀な戦いだとしても。
「おじさん、私、もう迷わない。パパが嘘をつかされたのなら、私がその嘘を真実で塗り替える。神崎がパパの心をバラバラにしたのなら、私がそれをすべて、法律で繋ぎ直してみせる」
麻子の瞳に灯ったのは、ひまわりのような明るい光ではない。
それは、すべてを焼き尽くし、偽りの正義を裁くための、青白い「法の焔」だった。
2005年、夏。
「死刑囚の娘」は、国家という巨大な壁を穿つための、一振りの「剣」へと変貌した。
30年に及ぶ物語は、ここから最凶の敵を相手取った、真の最終章へと動き出す。
「パパ、見ててね。私が、本物の『いい子』が報われる世界を作ってあげるから」
雨上がりの夜空に、麻子の誓いが静かに響いていた。




