第1話:あさちゃんと、6歳のパパ
2026年2月13日。東京地方裁判所、104号法廷。
その場所は、30年という歳月の重みに耐えかねるかのような、濃密な沈黙に包まれていた。
「主文。被告人は、無罪」
裁判長の口から放たれたその言葉は、あまりにも短く、あまりにも呆気なかった。
弁護団席に座る松山麻子は、その瞬間、世界から音が消えたような錯覚に陥った。隣で肩を震わせるベテラン弁護士の嗚咽も、傍聴席から漏れる小さなどよめきも、彼女の鼓膜には届かない。
ただ、自身の視界だけが急激に解像度を増していく。
手元に置かれた、色褪せた一冊の自由帳。そこには、30年前のあの日、父・寛が不格好な筆跡で描いたひまわりの絵がある。その黄色い花びらが、法廷の白い照明を反射して、まるで今、目の前で揺れているように見えた。
「……パパ」
麻子の唇が微かに動く。声にはならなかった。
35歳になった彼女の瞳から、熱い想いが次から次へと溢れ出し、真っ白な法廷の机に大きな染みを作っていく。それは、一人の無力な少女が、たった一人で「司法」という巨大な壁に挑み続けた、30年分の涙だった。
裁判所の外は、2月特有の刺すような寒風が吹き荒れていた。
無罪判決の速報を伝えるために駆け回る記者たち、テレビカメラのフラッシュ、そして「正義は勝った」と叫ぶ支援者たちの声。麻子はその喧騒を避けるように、足早にタクシーに乗り込んだ。
向かった先は、都心から少し離れた場所にある、かつての拘置所跡地だった。
今はもう高い塀の向こうに人影はなく、老朽化したコンクリートが寒空の下で凍えている。麻子はその壁を見上げ、冷たい表面にそっと掌を当てた。
「パパ。やっと、終わったよ」
壁を通して、父の温もりを探した。
知的障害を持ち、6歳の知能しか持たなかった父。この壁の向こうで、彼は一体何度「あさちゃん、ごめんね」と呟いたのだろうか。何も悪いことをしていないのに、謝ることしかできなかった父。麻子の脳裏に、かつて面会室のアクリル越しに見た、怯えた父の瞳が蘇る。
「……もう、泣かなくていいんだよ」
彼女は自分に言い聞かせると、深く一礼し、そこを立ち去った。
午後6時。
麻子が自宅のマンションのドアを開けると、玄関から小さな足音が響いてきた。
「ママ、おかえりなさい!」
飛びついてきたのは、6歳になる娘のひかりだった。麻子は娘を抱き上げ、その柔らかな頬に自分の顔を寄せる。子供特有の、お日様のような甘い匂い。その温もりに触れるたび、麻子は胸が締め付けられる思いがした。30年前、自分もこうして父に抱きしめられていた。
「ひかり、ただいま。遅くなってごめんね」
「ううん。ねえママ、テレビでやってたよ。おじいちゃんのこと。『むざい』って言ってた。おじいちゃん、やっとおうちに帰ってくるの?」
ひかりの無邪気な問いに、麻子の動きが止まる。
リビングのソファに腰を下ろすと、ひかりは麻子の膝の上に潜り込み、不思議そうに母親の顔を覗き込んだ。
「おじいちゃんって、どんな人だったの? 写真はあるけど、ひかり、おじいちゃんの声、聞いたことないもん」
ひかりの瞳は、驚くほど父に似ていた。濁りのない、まっすぐな輝き。麻子は一瞬、言葉に詰まった。父のことを語るには、あまりにも多くの悲劇が重なりすぎている。けれど、今日という日は、悲劇ではなく「愛」を語るべき日なのだと、自分に言い聞かせた。
麻子は立ち上がり、棚の奥から古びた小さな缶を取り出した。中には、折れた数本のクレヨンと、小さな折り紙のコマが入っている。
「……おじいちゃんはね、ひかり」
麻子は優しく微笑み、ひかりの髪を撫でた。
「世界で一番、優しい人だったの。そしてね、今のひかりと、ちょうど同じくらいの人だったんだよ」
「ひかりと同じ? 6歳なの?」
「そう。パパはね、体は大きなおじさんだったけど、心は、ひかりと同じ6歳だった。お花が好きで、お菓子が大好きで、嘘がつけなくて……。ひかりにとっての、一番の親友だったんだよ」
窓の外では、2月の冷たい風が止み、静かな夜が降りていた。麻子はゆっくりと目を閉じ、記憶の扉を静かに開く。そこには、色鮮やかな1997年の夏が、昨日のことのように広がっていた。
1997年8月、陽だまりの季節
物語は、あの眩しすぎるほどに暑い夏の日へと遡る。
1997年。埼玉県にある、築年数の古い木造アパート「ひだまり荘」。
その2階の一室からは、絶えず楽しそうな笑い声が漏れていた。
「パパ、見て! この黄色、太陽みたいでしょ!」
6歳の麻子が、床いっぱいに広げた画用紙を指差して誇らしげに言った。
「わあ、あさちゃん、すごい! ほんとだ、キラキラしてる。パパも描くよ。パパのは、もっと大きいひまわりさんにするんだ!」
そう言って、クレヨンを握りしめたのは、当時35歳の松山寛だった。寛の身体は、肉体労働で鍛えられたがっしりとした大人のものだったが、その手つきは、どこかたどたどしい。彼は知的障害を持っていた。精神年齢は、奇しくも娘の麻子と同じ6歳程度。
二人は親子であり、同時に最高の「遊び仲間」でもあった。
寛は、町の工事現場で資材を運ぶ仕事をしていた。複雑な計算や事務作業はできないが、力仕事だけは誰よりも真面目にこなした。現場の監督も「寛君は力持ちで、性格が素直だから助かるよ」と重宝していた。
寛が仕事から帰ってくると、麻子との「第二の生活」が始まる。
母は、麻子が生まれてすぐに病で亡くなっていた。親戚たちは「知的障害者に子育てなんて無理だ」と猛反対したが、寛は泣きながら麻子を抱きしめ、片時も離そうとしなかった。
「パパが……あさちゃん、守るの。パパ、あさちゃんのこと、大好きだから」
その言葉通り、寛は不器用ながらも一生懸命に麻子を育てた。
朝ごはんは、いつも少し形が崩れた目玉焼きと、厚切りのトースト。
学校へ行く麻子の背中に、寛はいつも「右見て左見て、車めっ!だよ」と声をかけた。
夕暮れ時、二人はよく近所の小さな公園へ行った。
寛は、公園の砂場で麻子と一緒に大きなお城を作るのが日課だった。
「パパ、あそこから敵が来るよ!」
「大変だ! パパが門を閉めるよ。あさちゃん、お城のお姫様を守って!」
そんな光景を見て、近所の人々は微笑ましく見守る者もいれば、一部には眉をひそめる者もいた。
「いい大人が子供と泥だらけになって……」
「あの家、親が子供みたいで大丈夫なのかしら」
しかし、麻子にとって寛は、完璧な父親だった。
寛は絶対に怒鳴らなかった。麻子が転んで泣けば、自分も一緒に泣きそうな顔をして「いたいいたいの、パパにちょうだい」と、その小さな傷を何度も撫でてくれた。
寛の掌は大きくて、ゴツゴツしていたけれど、麻子の頬に触れるときはいつも、春の風のように優しかった。
その日の夕食後、寛は麻子に一つの「宝物」を見せた。
それは、彼が仕事現場で拾ってきた、使い古されたボルトとナットだった。
「これね、お星様が落ちてきたんだよ。パパがあさちゃんにプレゼント」
寛はそう言って、麻子の手に重い鉄の塊を握らせた。
麻子にとっては、それは高価な宝石よりも価値のあるものに思えた。
「わあ……お星様だ。パパ、ありがとう!」
「あさちゃん。明日、もっといいもの買いに行こうね。ひまわりの種。それを植えて、パパとあさちゃんで、このアパートを黄色いお花でいっぱいにしよう」
「約束だよ、パパ!」
「うん、約束。パパ、絶対忘れないよ」
二人は指切りをした。
寛の小指と、麻子の小指。
それは、永遠に続くはずの、ささやかな日常の誓いだった。
しかし、運命の歯車は、この時すでに狂い始めていた。
その翌日、寛はいつものように仕事へ行き、帰りに麻子のためにコロッケを買って帰る途中で、公園の植え込みから泣き声を聞くことになる。
それが、30年に及ぶ悲劇の始まりだとは、神様以外、誰も知る由もなかった。
窓の外の夜は、どこまでも深く、静かだった。
麻子は、膝の上で眠りについたひかりの髪をなぞりながら、かつての父の笑顔を思い出していた。
「……お話ししてあげるね、ひかり。おじいちゃんが、どれほど愛してくれていたか。そして、あの日、世界がどうして壊れてしまったのかを」
麻子の物語は、まだ始まったばかりだった。




