優しさに違和感を覚えて
静かな夜のニュースが、また一つ、教室の映像を流していた。
モザイク越しに揺れる机と、切り取られた怒声。
教師の暴力は許されない、と画面の中の誰かが言う。
正しい言葉だと思う。思うのに、胸の奥で、
別の声がひっそりと息をしていた。
叱らない育児。
体罰に過剰なほど敏感になった教育。
それらが、今のこの息苦しさに、
どれほど影を落としているのだろう。
私は、叱られずに育った子どもたちを何人も知っている。
彼らは優しい。丁寧で、誰かを傷つけない言葉を選ぶ。
けれど同時に、境界線を知らない。
「ここから先はだめだ」
という、身体で理解するはずだった線を、
頭の中の説明だけでなぞってきたせいで。
ある日、近所の公園で、年上の子が年下の子を突き飛ばした。
泣き声が上がる。
大人たちは駆け寄り、言葉で諭す。
「だめでしょ」
「やめなさい」
「気持ちを考えて」
正しい言葉が、いくつも重なって、宙に浮く。
その子は、黙っている。
謝りもしないし、逃げもしない。
ただ、何が悪かったのか、
本当には分かっていない顔をしていた。
私は思ってしまう。
良くない行動のとき、痛みを知ることが、
すべて間違いなのだろうか、と。
痛みは残酷だ。
だが、現実はもっと残酷で、取り返しのつかない痛みを、
いつか必ず誰かに与える。
その前に、どこで線を引くのか。
教師の暴力を糾弾するなら、親は何を引き受けるべきなのか。
「学校では手を出すな」
と言うなら、
家庭では、どこまで責任を持って、止めるのか。
言葉だけで届かなかったとき、
それでもなお、何もしてはいけないのか。
しつけにおける暴力を、すべて同じ箱に入れて否定することに、
私は違和感を覚える。
怒りに任せた暴力と、境界を示すための介入は、
本当に同じなのだろうか。
殴ることと、止めること。
傷つけることと、守ること。
その違いを、私たちは曖昧なまま、
恐怖だけで語ってはいないだろうか。
もちろん、暴力は簡単だ。
一瞬で終わる。
考えなくていい。
だからこそ、怖い。
だからこそ、無条件で肯定することもできない。
けれど、無条件で否定した先に、何が残るのかも、
私はまだ分からない。
叱られない子どもは、世界に叱られる。
その最初の一撃が、親であるべきなのか、
社会であるべきなのか。
答えはきっと、誰にも言い切れない。
夜のニュースは、次の話題に切り替わる。
私はテレビを消して、静かな部屋で考え続ける。
痛みを与えないことと、痛みを教えないことは、
同じではない。
そのことだけが、今のところ、私の中で、はっきりしていた。




