第1話:捨てられた計算機
全3話の短編です。サクッと読めてスカッとします!
バサァッ、と乱暴な音を立てて、分厚い書類の束が床に散らばった。
それは、私が三日三晩寝ずに仕上げた、バルトロメオ商会の来期予算案と、過去五年分の決算修正報告書だった。
「地味だ、地味だ、地味だ! お前の作る書類も、お前自身の顔も、何もかもが華やかさに欠けるんだよ、リリアナ!」
怒鳴り声が執務室に響く。
目の前で顔を真っ赤にして叫んでいるのは、私の婚約者であり、このバルトロメオ商会の次期会頭――ダリオ・バルトロメオだった。
その隣には、体に張り付くようなけばけばしいドレスを着た女性が、扇子で口元を隠しながらくすくすと笑っている。男爵家の令嬢、ミラベル様だ。
「まあ、ダリオ様ったら。そんなに怒っては血圧に触りますわよ? リリアナさんも、もう少し空気を読めばよろしいのに。こんなカビ臭い数字の羅列、ダリオ様の素晴らしい感性には合わないわ」
「その通りだ、ミラベル! ああ、やはり君だけだ、僕の真価を理解してくれるのは!」
ダリオは先ほどまでの怒号が嘘のように、デレデレとした顔でミラベルの腰に手を回した。
私は、床に散らばった書類を拾い集めることもできず、ただ立ち尽くしていた。指先が冷たくなり、震えが止まらない。
「あ、あの……ダリオ様。ですが、その書類をご確認いただかないと、銀行への融資申請が……」
「うるさい! 僕を指図するなと言っているんだ!」
ダリオは私の言葉を遮り、冷酷な目で私を見下ろした。
「いいか、リリアナ。単刀直入に言おう。お前との婚約は破棄する」
予想はしていた。けれど、実際に言葉にされると、心臓を殴られたような衝撃が走る。
私の実家である貧乏子爵家にとって、新興の成金であるバルトロメオ商会との縁談は、家計を支える命綱だった。私がここで捨てられれば、家族はどうなるのか。
「そ、そんな……。理由を、お聞かせください」
「理由? 鏡を見ればわかるだろう。お前のような陰気な女は、これから社交界で飛躍する僕の隣にはふさわしくない。これからは、華やかで人脈も広いミラベルが僕のパートナーだ」
ミラベル様が勝ち誇ったように胸を張る。彼女の実家は男爵家だが、派手な交友関係で知られている。実務能力など皆無だろうが、ダリオにとっては「見栄えの良い飾り」があればいいのだ。
「……わかり、ました。婚約破棄、お受けします」
私は唇を噛み締めながら、頭を下げた。これ以上縋っても、惨めになるだけだ。せめて最後は、貴族らしく去ろう。
そう思って踵を返そうとした時、背後からダリオの信じられない言葉が投げかけられた。
「おい、どこへ行く気だ? 話は終わっていないぞ」
「……え?」
「婚約は破棄するが、お前は引き続きここで帳簿の管理を続けろ」
私は耳を疑った。振り返ると、ダリオは何食わぬ顔で言った。
「次の夜会で僕とミラベルの婚約を発表する。それまでに、お前が管理している裏帳簿や取引先とのコネクション、それらの権利をすべて商会に譲渡する書類を作れ。それと、来月の決算処理までは手伝わせてやる。感謝しろよ? 婚約破棄された傷物の女を、雇ってやろうというんだからな」
「や、雇う……? では、お給料をいただけるのですか?」
「はあ? 何を言っているんだ?」
ダリオは心底不思議そうな顔をした。
「お前の実家には、これまで散々援助してやっただろう? その恩返しをするのは当然じゃないか。まさか金を要求するつもりか? これだから守銭奴は嫌われるんだ」
――援助?
確かに、表向きはそうかもしれない。けれど、その援助金の何倍もの利益を、私が考案した流通ルートで叩き出してきたはずだ。ここ数年、ダリオが遊興費に使っている金は、全て私が削減した経費から捻出されたものなのに。
「……それは、あまりに理不尽です」
「理不尽? 権力のない無能な女が何を言う。いいか、来週の夜会までに書類を揃えておけ。さもなくば、お前の実家への援助を即刻打ち切り、借金の返済を迫ってやるからな!」
高笑いするダリオとミラベルを残し、私は逃げるように執務室を飛び出した。
◇ ◇ ◇
王都の裏路地にある、目立たない喫茶店。
古びたテラス席の隅で、私は冷え切った紅茶を前にうなだれていた。
涙も出なかった。ただ、鉛のような絶望が胃の腑に溜まっている。
実家への援助を打ち切られたら、両親や使用人たちは路頭に迷う。私がタダ働きを続けるしか、道はないのだろうか。
私の人生は、あの男の都合の良い計算機として終わるのだろうか。
「――それで? 貴女はあんな男の奴隷になって、一生を終えるつもり?」
不意に、凛とした声が頭上から降ってきた。
びくりと顔を上げると、そこには信じられないほど美しい三人の女性が立っていた。
真ん中に立つのは、氷のような銀髪をなびかせ、知的な眼鏡をかけた女性。その鋭い眼光は、まるで獲物を品定めする猛禽類のようだ。
右側には、蜂蜜色の巻き毛を揺らす、たおやかな美女。扇子で口元を隠しているが、その目は笑っていない。
左側には、燃えるような赤髪を短く刈り込んだ、長身の女性。ドレスの上からでもわかるほど鍛え上げられた肉体美に、思わず圧倒される。
「あ、あの……皆様は……?」
「あら、自己紹介がまだでしたわね」
銀髪の女性が、私がテーブルの上に放置していた書き損じの帳簿――ダリオに突き返されたもの――を、優雅な手つきで拾い上げた。
「わたくしはコーデリア。こちらはベアトリスとアンナ。……貴女、リリアナ・ヴァイオレット子爵令嬢ね?」
「な、なぜ私の名を?」
「調べがつかないことなんて、この社交界にはないわよぉ」
蜂蜜色の髪の女性、ベアトリス様が甘い声で囁く。
「単刀直入に言うわ、リリアナ嬢。この帳簿……貴女が作ったの?」
コーデリア様が、私の帳簿をパラパラとめくりながら尋ねた。
「は、はい。ですが、それはただのゴミです。ダリオ様には『地味で役に立たない』と……」
「ゴミ? これが?」
コーデリア様の眼鏡がキラリと光った。次の瞬間、彼女はバンッ! とテーブルに帳簿を叩きつけた。
「貴女、自分が何を書いているか分かっていて? この『減価償却の圧縮スキーム』と『在庫回転率に基づく発注調整』……これだけで、通常の商会の純利益を三十パーセントは上乗せできるわ。これを『ゴミ』と呼ぶなんて、そのダリオという男の脳みそは腐ったカボチャ以下ね」
「そ、そうですか……?」
「ええ。そして貴女、この帳簿を見る限り、過去五年間、ほぼ無休で商会の経理を回していたわ音ね? しかも無給で」
私は力なく頷いた。
すると、赤髪のアンナ様が、ギリリと拳を握りしめた。その拳からは、物理的に何かが軋む音が聞こえた。
「許せねえな。か弱き乙女の才能を搾取し、あまつさえ心を殺そうとするとは。……叩き潰していいか? 今すぐに」
「待ちなさい、アンナ。暴力は最終手段よ。まずは社会的かつ経済的に息の根を止めるのが先決」
コーデリア様は私の向かいの席に座り、悪魔的な笑みを浮かべた。
「リリアナ嬢。貴女、悔しくないの?」
「……悔しい、です。でも、私には力がありません。実家も貧しいし、彼に逆らったら……」
「力がなければ借りればいいのよ。――わたくしたちから」
三人の令嬢が、同時にニヤリと笑った。その笑顔は、女神のように美しく、そして魔王のように恐ろしかった。
「わたくしたちはね、婚約破棄された傷物の集まりよ。だからこそ、同じ痛みを持つ貴女を放っておけない」
「それに、最近退屈していたのよぉ。そろそろ大きめの獲物が欲しかったところなの」
「安心しろ。貴様の身の安全と、これからの人生は私たちが保証する。その代わり――」
コーデリア様が、私の手を取り、力強く言った。
「その男を地獄へ突き落とす覚悟はあるかしら? 泣き寝入りなんて許さない。彼が貴女から奪ったもの、そのすべてに利子をつけて、骨の髄まで搾り取って差し上げましょう」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で燻っていた残り火が、カッと熱く燃え上がった気がした。
この人たちとなら、できるかもしれない。
いいえ、やりたい。私を馬鹿にしたあの男に、私という人間を失うことの本当の意味を教え込みたい。
私は涙を拭い、震える声で、けれどはっきりと答えた。
「……お願いします。私に、復讐の方法を教えてください!」
コーデリア様が満足げに頷く。
「契約成立ね。さあ、忙しくなるわよ。『バルトロメオ商会・解体プラン』の作成に取り掛かりましょうか」




