第6章
カチャリ、と部屋の鍵を開け、俺は深夜の静まり返った廊下へと足を踏み出す。
ひんやりとした空気が、火照った肌を撫でていく。
窓から差し込む青白い月の光が、廊下をまだらに照らし出し、俺の影を長く伸ばしていた。
ギシッ、と体重のかかった床板が、小さな悲鳴を上げる。
キッチンへ向かう途中、隣にある妹の部屋の前を通り過ぎようとした、その時だった。
美羽の部屋のドアが、数センチほど、僅かに開いていることに気づいた。
「……あいつ、ドアも閉めずに寝てんのか? 不用心なやつだな」
まあ、この家には俺とあいつしかいないようなものだが。
後でそっと閉めてやるか。
そう思いながら、何気なく部屋の前を通り過ぎようとした、まさにその瞬間。
その隙間から、声が、漏れ聞こえてきた。
『お兄ちゃん……もう我慢できないよ』
俺の足が、まるで床に縫い付けられたかのように、ピタリと止まった。
心臓が、ドクン、と大きく喉の奥で跳ねる。
聞き覚えがある、なんてもんじゃない。
さっき、俺がむさぼるように聞いていた『妹カノジョ』のヒロインの声と、同じじゃないか。
「……なんだ、今の……」
背筋に、ぞわりと悪寒が走る。
いや、待て、落ち着け、俺。
偶然だ。こんなのは偶然に決まってる。
俺は再び歩き出そうとした。
だが、その一歩を踏み出すより先に、次の声が俺の鼓膜を捕らえた。
『もっと……もっと激しく……して……?』
今度は、声のトーンが明らかに違う。
さっきの甘酸っぱい響きとは真逆の、切羽詰まった、それでいてどこか甘美な響き。
間違いない。これは、『調教される妹』のヒロインの声だ。
顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
なんだ?
どういうことだ?
俺は息を殺し、亡霊のようにドアの前へとにじり寄った。
壁に耳を押し付け、全神経を聴覚に集中させる。
『私のこと、本当に愛してるの?』
――完全に、「桜井みお」だ。
イントネーション、吐息の混じり方、声の震え、語尾の消え方。
俺が愛し、崇拝し、その声の成分を分子レベルで記憶している、女神の声そのもの。
なんでだ? どうして、美羽の部屋から、桜井みおの声が聞こえる?
俺の頭は、ショート寸前の回路のように、火花を散らしながら高速回転を始めた。
そうだ、美羽が、俺と同じようにゲームをプレイしているんだ。
きっとそうだ。
だが、待て。
そもそも、あいつがこんなディープな同人エロゲーに手を出すなんて、想像もつかない。
パニックに陥る俺の耳に、全ての仮説と希望的観測を、木っ端微塵に粉砕する、決定的な一言が届いた。
「うーん、今度はもっと切ない感じでやってみようかな」
世界から、音が消えた。
時間の流れが、止まった。
脳内で、これまで散らばっていた無関係なはずのピースが、恐ろしい速度で組み合わさっていく。
今朝、不自然に掠れていた美羽の声。
カラオケに行ったという、苦し紛れの言い訳。
帰宅した時の、あの奇妙な高揚感と紅潮した頬。
そして、今、この耳で聞いた、完璧な「桜井みお」の演技。
バラバラだった点が、線で結ばれる。
そして、その線が描き出したのは、信じがたく、おぞましく、そして何よりも――冒涜的な、一つの結論だった。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
冷や汗が、滝のように背中を伝っていく。指先は、まるで氷水に浸したかのように、感覚を失っていた。
憧れの女神。
脳を焼き切るほどに愛した、あの声の主が。
俺が、この世の何よりも尊いと信じて疑わなかった、あの神聖な響きが。
まさか、自分の、実の妹――?
「そん、な……わけが…………」
絞り出した声は、音にならなかった。
目の前が暗くなり、ぐらりと、世界が傾いた。