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第4章

 すべての学業という名の苦行を終え、俺は夕暮れの街を歩いていた。

 西日が長く影を伸ばし、家路につく人々の喧騒が耳に心地いい。


 イヤホンからは、もちろん「桜井みお」の過去作のサンプルボイスがエンドレスで流れている。

 彼女の甘い声に導かれるように、俺は無意識に自宅へのルートを辿っていた。


 見慣れた住宅街。角を曲がれば、そこには我が「葛城城」が静かに佇んでいる。

 二階の窓から、オレンジ色の温かい光が漏れていた。

 どうやら、妹はすでに帰宅しているらしい。


「ただいまー」


 気の抜けた声と共に玄関のドアを開けると、その声に応えるかのように、リビングからパタパタという可愛らしいスリッパの音が駆け寄ってきた。


「おかえりなさい、お兄ちゃん」


 ひょこっと顔を出したのは、我が妹・美羽だ。

 学校指定のベストに着替えたラフな格好。

 その笑顔は、いつも通りの、太陽みたいに明るい妹の笑顔。のはずだった。


「ん?」


 俺は、思わず眉をひそめる。

 

 なんだ? こいつの顔。


 頬が、まるで林檎のようにほんのりと赤く染まっている。

 運動した直後のような、健康的な血色だ。


 それだけじゃない。

 目が、やけにキラキラと潤んでいる。

 呼吸も心なしか弾んでいて、その表情全体から、何かとてつもない達成感をやり遂げた後のような、一種の上気したオーラが立ち上っていた。


「……なんだお前、部活で走り込んできた後みたいな顔してんな」

「えっ、そ、そうかな? べ、別に普通だよ!」


 俺の指摘に、美羽は一瞬ぎくりと体を強張らせ、慌てて両手で自分の頬をパタパタと叩いた。

 その仕草が、かえって怪しさを増幅させていることに、本人は気づいていないらしい。


「ほら、早く入って。今日、ちょっと肌寒いから」


 美羽に促されるままリビングへ入ると、ローテーブルの上には、彼女の物と思われる教科書やノートが綺麗に広げられていた。

 だが、その整頓のされ方には、どこか不自然さが漂う。

 まるで、誰かが来る直前に、慌てて「勉強してました」感を演出しようとしたかのような、そんなわざとらしさを感じた。


「お茶、淹れるね!」


 俺がソファに荷物を置くや否や、美羽は甲斐甲斐しくキッチンへ向かう。


「はい、どうぞ。麦茶でいいよね?」

「ああ、さんきゅ」


 差し出されたグラスを受け取る。

 美羽は俺の隣にちょこんと座ったが、どこか落ち着かない様子で、チラチラと俺の顔色を窺うだけで、なかなか視線を合わせようとしない。


「あのね、お兄ちゃん!」

 

 不意に、彼女は何かを決心したように声を上げた。

 

「夕飯のリクエスト、ある? 今日はなんだか、すっごく腕によりをかけて美味しいもの、作ってあげたい気分なんだ!」

「……へえ」


 なんだこいつ、やけに機嫌がいいな。

 いつもは「具体的なリクエストじゃないとヤダ」とか言うくせに。


「何でもいいよ。美羽の作るもんなら、どうせ美味いし」

「もう、そういうのが一番困るんだってば!……うーん、じゃあ、じゃあさ!お兄ちゃんの大好きな、チーズインハンバーグにしよっかな!」


 うきうきと、心底楽しそうに言う。


「何か、いいことでもあったのか?」

 

 素直な疑問を口にすると、美羽の肩がまたしてもピクリと震えた。

 

「えっ!? べ、別に、なーんにもないよ! 本当だって! ただ……そう、お兄ちゃんが帰ってきたから、嬉しいだけ!」


 ぶんぶんと首を大げさに横に振り、彼女は照れ隠しのように笑う。

 その笑顔は完璧に「善良な妹」のものだったが、俺の心の片隅に引っかかっていた棘は、消えるどころか少しだけ存在感を増した気がした。


 美羽が「じゃあ、さっそく準備するね!」とキッチンへ向かった後、俺は一人、ソファの上で腕を組んだ。


 今日の美羽は、明らかにおかしい。

 考えられる可能性はいくつかある。


 第一に、彼氏ができた。……いや、ないな。

 あのシスコン気味の美羽に限って、俺に隠れてコソコソするとは考えにくい。

 

 第二に、テストで学年一位でも取った。

 ……いや、それであんな子供みたいにはしゃぐか?

 いつものことだろうに。


「……わっかんねえな」


 結局、いくら考えても答えは出なかった。

 まあ、いいか。思春期の女子の生態なんて、宇宙人のそれを解明するより難しい。


 俺みたいな三次元に疎い人間に分かるわけがないのだ。


 キッチンから、ハンバーグのタネをリズミカルに捏ねる音が聞こえてくる。

 その平和なBGMを聞いているうちに、俺の思考はすっかりどうでもよくなっていた。


 そうだ。難しいことを考えるのはやめよう。

 美味い飯が食えるなら、それで万事OKだ。


 俺はソファから立ち上がり、自分の聖域サンクチュアリである二階の部屋へと向かった。

 

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