第2章
けたたましいスマホのアラーム音で、俺の意識は現実世界へと無理やり引き戻された。
重たい瞼をこじ開けると、カーテンの隙間から差し込む朝日が容赦なく目を刺す。
「……うぅ、頭いてぇ……」
昨夜、女神の声に酔いしれた代償は、見事なまでの寝不足と倦怠感となって全身にのしかかっていた。
ベッドからゾンビのように這い出し、伸びきったTシャツのまま部屋のドアを開ける。
ひんやりとした廊下の空気が、火照った肌に心地いい。
階下から、何かが焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。
トーストと……ベーコンか。この匂いは、俺の胃袋を的確に刺激する、我が家の「おはよう」の合図だ。
眠気を引きずったまま階段を降り、リビングのドアを開ける。
「おはよう、お兄ちゃん。よく眠れた?」
その声と共に、完璧な朝の光景が目に飛び込んできた。
朝日が差し込む明るいキッチン。そこに立つ、エプロン姿の妹。
腰まで伸びた艶やかな黒髪を、今日はポニーテールに揺らしている。
高校の制服の上から慣れた手つきでエプロンをまとう姿は、非の打ち所がない『理想の妹』そのものだ。
我が妹、葛城美羽。
現在、花のセブンティーンを謳歌する高校二年生。
成績優秀、眉目秀麗、おまけに生徒会副会長まで務める、絵に描いたような優等生である。
「んー……まあまあ。つーか、お前、朝から元気だな」
「お兄ちゃんがだらしないだけでしょ。ほら、顔洗っておいでよ。ご飯できてるから」
俺の寝癖だらけの頭を指さして、美羽は楽しそうに笑う。
洗面所で顔を洗い、少しだけ覚醒した頭で食卓につくと、そこには完璧な布陣が敷かれていた。
こんがりと焼かれた厚切りトーストの上には、絶妙な半熟具合の目玉焼き。
その脇を固めるのはカリカリに焼かれたベーコンと、彩り鮮やかなミニサラダ。ドレッシングまで手作りというこだわりようだ。
「さんきゅ。いただきます」
「はい、召し上がれ」
フォークで黄身をぷすりと刺すと、とろりとしたそれが黄金色のソースとなってトーストに流れ落ちていく。
これだよ、これ。このビジュアルだけで白米三杯はいける。
まあ、今食ってんのはパンだが。
もぐもぐとトーストを頬張りながら、俺の脳裏に、昨夜の光景がふとフラッシュバックした。
『妹カノジョ』にも、ヒロインが主人公のために朝食を作るシーンがあったな。
確か、彼女が言ったセリフは……。
――『お兄ちゃんのために、愛情いっぱい込めて作ったんだから……残さず食べてよねっ!』
桜井みおの声で脳内再生される、ツンデレなセリフ。
ふ、と目の前の妹に視線を移す。
もちろん、美羽の声は桜井みおとは似ても似つかない。
ごく普通の、少し高めの澄んだ声だ。
まあ、当たり前か。
俺の女神と、現実の妹が同じ声なわけがない。
「どうしたの、お兄ちゃん。じっと見て」
「いや、別に。美味いなと思って」
「そ?よかった。あ、お兄ちゃん、今日帰りは?」
「いつも通りかな」
「そっか。じゃあ、夕飯は何かリクエストある?」
「んー、美羽の美味いヤツなら何でも」
「もう、具体的にお願いしないと困るって言ってるでしょ」
そう言って悪戯っぽく唇を尖らせる美羽の顔が、やけに艶っぽく見えたのは寝不足のせいだろうか。
朝日を浴びてキラキラと輝く瞳が、妙に潤んで見える。
ん?と、俺はそこで小さな違和感に気づいた。
「お前、声どうした?ちょっと掠れてねえか?風邪か?」
「えっ!?」
俺の指摘に、美羽はビクッと肩を揺らし、あからさまに動揺した。
「う、ううん、なんでもないよ!ちょっと……そう、昨日、友達とカラオケで歌いすぎちゃって!乾燥してるだけ!」
やけに早口で、視線を泳がせながら言い訳する。
カラオケ?こいつが?
普段、そういう場所にはあまり行かないタイプだと思っていたが。
まあ、女子高生の付き合いも色々と大変なんだろう。
ぷいっとそっぽを向く美羽。その仕草も、なんだか妙に芝居がかって見える。
……俺の頭、マジでバグってんのかもしれない。
昨夜のゲームの影響で、現実と二次元の境界が曖昧になってるのかもな。
俺はそれ以上深く突っ込まず、妹が作ってくれた完璧な朝食を胃袋にかき込んだ。
「じゃ、俺先行くわ」
「うん、いってらっしゃい、お兄ちゃん」
玄関で靴を履く俺を、美羽がリビングのドアから顔を出して見送る。
ごく普通の、ありふれた平日の朝。
何一つ変わったことなどない、完璧な日常。
そのはずなのに、俺の心には、美羽の声に感じたほんの僅かな掠れと、その時の不自然な動揺が、小さな棘のようにチクリと引っかかって残っていた。