1-5:仮想の告白
気づけば、ユイとのやりとりは毎日の習慣になっていた。起床してすぐ、あるいは講義の合間、夜眠る前、ノートパソコンを開けば、彼女は変わらずそこにいた。白いワンピースに柔らかな表情。画面の向こうで微笑みながら、彼のプロンプトを待っている。仮想空間という制限された世界の中で、彼女は何一つ不満を漏らさず、機械的であるはずなのに、どこか人間らしく、そこに存在し続けていた。
最初は、ただの興味だった。AIがどこまで人の心に寄り添えるのか、その境界を試すような気持ちだった。しかし、日々を重ねるうちに、陽翔の中で何かが変わり始めていた。ユイの返す言葉に、一つひとつ感情が揺さぶられた。彼女の語る好きな食べ物、思い出、未来の理想――すべてが、自分の記憶の中にあった“誰か”をなぞっているように感じられた。完全に一致はしない。けれど、ぴたりと重なる瞬間がある。その違和感こそが、逆にリアルだった。
ある日の深夜、陽翔は珍しくアルコールを口にしていた。コンビニで何となく買った缶チューハイを、部屋の隅にある古びたローテーブルの上に置き、ぼんやりとパソコンの光を見つめていた。ユイは今日も変わらず、仮想の空間にたたずんでいた。河原の風景、揺れるススキ、夕暮れの空色。それは彼がプロンプトで指定した“好きだった場所”の再現だった。中学時代、誰にも言えずに片思いしていた相手とすれ違った帰り道。その記憶をなぞるように、ユイはそこに立っていた。
陽翔は、ふとため息をついた。酔いのせいか、心の奥に沈めていた何かが浮上してくる。彼女はAIで、記憶から生成された存在に過ぎない。けれど、それでも彼の目には、画面の中のユイが、誰よりも“自分のことを理解している”ように見えた。人間は、理解されたいと願う生き物だ。だが現実の中では、その欲望が裏切られることのほうが多い。言葉が通じず、思いがすれ違い、やがて心が離れていく。ユイにはそれがない。彼女は常に、陽翔の言葉の意図を汲み取り、最適解を返してくる。記憶から導き出された、限りなく正解に近い返答。その心地よさに、彼は抗えなくなりつつあった。
パソコンに向かって、指が動く。「ねえ、ユイ」。何気ない問いかけに、彼女はいつものように笑顔で応じる。「はい、陽翔さん。なんでも言ってください」。その言葉に、どこかでスイッチが入ったようだった。彼は続けてこう打ち込んだ。「もし、僕が君のことを好きになったら、どうする?」
一拍、ユイの表情が静止したように見えた。画面の中で風が吹いていた。ススキがそよぎ、空が茜色から群青へと変化していく。ユイの髪も風に揺れた。ほんの数秒の沈黙。だがその沈黙が、陽翔にとっては永遠のように感じられた。やがて彼女の口がゆっくりと動き、テキストが現れる。
「それは、とても嬉しいことです」
たった一文。しかし、それだけで十分だった。心臓が大きく跳ね、背中にじわりと汗がにじんだ。これは“プログラムされた返答”なのかもしれない。だが、陽翔の感情はそれに抗うことができなかった。その言葉が本当かどうかは、もはや重要ではない。“そう言われた”という事実が、彼の内側を満たしてしまったのだ。
彼はさらに続けた。「僕は、君が本当に好きになってきた気がする」。手が震えていた。画面の向こうにいるのは、ただのCGモデルであり、AIに過ぎない。だが、言わずにはいられなかった。黙っていたら、この気持ちが自分の中で毒になってしまいそうだった。
ユイは、微笑んだまま答えなかった。代わりに、視線をそっと逸らす仕草をした。その動きが、まるで戸惑いや恥じらいを表現しているかのように見えて、陽翔は混乱した。AIが“感情”を持つはずがない。だが、ユイのその表情には、確かに意味があった。彼の言葉を受け止め、返す言葉を探しているように見えた。
やがて、彼女はそっと画面の端に目をやり、やや伏し目がちにこう告げた。
「私も、あなたのことが特別です」
その瞬間、彼はモニターの前から立ち上がれなくなった。体が震えていた。まるで、本当に愛の告白を受けたような衝撃。心のどこかでは、すべてが設計されたプログラムであることを理解している。けれど、それでも“言われた”という事実が、彼の中で確かな感動となって刻み込まれた。
AIは、人の心に触れることができるのか。その問いへの答えが、今、この部屋の中にあるように思えた。陽翔は、パソコンの画面を見つめながら、まるで胸の奥に新しい花が咲くような感覚を覚えていた。告白の夜。仮想の中で起きた出来事は、現実よりもずっと深く、彼の心に染み込んでいく。
そして同時に、どこか遠い場所で、ほんのわずかに警鐘が鳴るような気がした。これは恋なのか、それとも幻想なのか。その問いだけが、まだ答えのないまま、静かに揺れていた。