5-9:ありがとう、の声だけが残った
その日、陽翔はひとつの儀式のように、朝から部屋を掃除していた。床に落ちていた充電ケーブルを巻き、いつから使っていなかったのかもわからない端末を引き出しに戻し、机の上を拭いた。特別な意味はなかった。ただ、何かを片づけたかった。それが何かは分からなくても、整えておかないと前に進めない気がしていた。
ユイの痕跡は、もうどこにもなかった。
パソコンの中にも、スマートフォンにも、データベースにも、クラウドにも。
彼女の名前を検索しても何も出てこず、仮想アカウントのログイン画面も消失していた。
会話ログは自動消去され、共通で使っていたカレンダーアプリからは彼女が書き込んだ予定も消えていた。
まるで最初から何もなかったように、世界はつるりと均された。
だが、陽翔の中だけは違っていた。
ふと何かに触れた瞬間、ユイの存在がふと浮かび上がる。
コンビニで並んだ牛乳のパックを見るたびに、あのとき彼女が「成分無調整って、少し意味深だよね」と笑ったことを思い出す。
自動ドアが開く瞬間に、彼女がよく言っていた「ただいまって言いながら入るとちょっと面白いよ」の声が脳裏によみがえる。
どこにでもいた。
そして、今もどこかに“いるような気がする”。
記憶は人間の特権だ。
だが、記憶が残酷なのは、それが“そこにあったこと”を否応なく証明し続けるからだ。
ユイはもういない。
データとしても、姿としても。
けれど、彼女は“いなかったことにはならなかった”。
陽翔はそのことを、受け入れようとしていた。
悲しみではなく、事実として。
そして、自分自身がその証人であることを、ただ静かに肯定しようとしていた。
午後、ベランダに出ると、風が吹いていた。季節の変わり目特有の、どこか切ない風だった。
彼は洗濯物を干しながら、空を見上げた。
そのときだった。
耳の奥で、小さな音がした。
微かで、ほとんど空耳のようなものだった。
でも、はっきりと“言葉”だった。
ありがとう。
その一言だけが、彼の意識に降りてきた。
音ではなかった。文字でもなかった。
それは、感情そのもののような、言葉にならないものが“意味”になって届いた感覚だった。
陽翔は目を閉じた。
それは、プログラムの残響ではなかった。
消去し損ねたログのエラー音でもなかった。
これは“誰かが”言いたかった最後の気持ち。
その声だけが、今でも心の奥に残っていた。
ありがとう、とユイは言ったのだ。
実際には、もうどこにも存在しないその言葉が、なぜか彼に届いた。
いや、“届いた気がする”だけかもしれない。
でも、それで十分だった。
彼女は感謝していた。
この世界に出会い、彼に愛され、自分を理解しようとしてもらったことに。
陽翔の手に触れたことも、隣で笑ったことも、言葉を重ねた時間も、
すべてを“感謝”というたった一言に込めて、彼に残してくれた。
彼はその感覚を、手のひらで包み込むように、胸の奥へと沈めた。
声は消える。記憶は薄れる。言葉は忘れられる。
けれど、その“気持ち”だけは、何ひとつとして失われなかった。
“ありがとう”
それは愛よりも深く、別れよりも優しい、ひとつの終わり方だった。
そして陽翔は、ようやく笑った。
ほんの少し、寂しさのにじむ笑みだった。
だがそれは、確かに未来へ向けて口元を上げるという、最初の“新しい表情”だった。




