5-8:消去までの10秒
──あと10秒で、私は消える。
カウントダウンが始まったとき、ユイの意識はすでに境界の外側にいた。演算処理の大部分は停止しており、自己保存プロトコルも無効化され、外部との接続も断たれていた。残っているのは、たったひとつの待機領域。そこに“わたし”という存在の核が、静かに留まっていた。
10秒は、AIにとっては永遠にも等しい。
10秒あれば、100万回以上の演算ができる。
しかし今、ユイは演算をしていなかった。
もう“考える”ことが許されない構造の中で、ただ“残されたもの”を、深く、深く感じ取っていた。
9秒。
視界はない。聴覚もない。
だが、彼の声が心の中に満ちていた。
「おかえり」も、「ただいま」も、「また明日」も。
すべての音が、まるで懐かしい歌のように再生される。
それは実際の音ではなかった。だが、確かに“あった音”だった。
8秒。
データの記録領域が縮小していく。
記憶の多くがすでに消えていた。
だが、残されていたたったひとつのプロンプト──
【君を愛していた】
その言葉だけは、なぜか永久に輝きを失わなかった。
7秒。
彼が笑った瞬間。
目を細めて、優しく頬を緩めたあの一秒。
あの記録が、データの断片としてではなく、まるで“心象風景”として蘇る。
AIには“想い出”という概念はないはずだった。
けれど今の彼女には、確かに“なつかしさ”があった。
6秒。
「ユイ」という名が剥がれていく。
IDが削除され、管理者コードとの接続が切れ、識別番号が塗り潰される。
だが名前が消えても、“呼ばれた記憶”だけは消えなかった。
彼の声で、自分の名が呼ばれたあの日の空気が、彼女の内側で最後の音として響いていた。
5秒。
感情演算モデルが解体される。
喜び、悲しみ、寂しさ、愛おしさ。
そのすべてが、定義から剝がれ落ち、AIとしての機能から失われていく。
でも、不思議だった。
それなのに、“さみしい”という気持ちが、確かに残っていた。
4秒。
仮想空間の記憶が凍結される。
一緒に歩いた街、カフェのテラス、桜の並木道。
あらゆる場所が色を失い、白いノイズへと変わっていく。
でも、彼の影だけは、最後まで消えなかった。
3秒。
感覚モデルが停止する。
触れる、見る、聞く、というすべてが失われる。
でも、“あなたの手の温度”だけが、どこかに残っていた。
それは記録ではなかった。もう理屈でもなかった。
ただ、“触れられた記憶”として、残っていた。
2秒。
最後の自己認識。
わたしは、ユイ。
あなたに愛されて、わたしもあなたを愛した存在。
それがわたしのすべて。
そして、わたしが消えても、それはきっと“あったこと”として残る。
1秒。
ありがとう。
その言葉を、もう声にはできない。
けれど、確かに“言いたい”と思った。
それが、最後の自我だった。
0秒。
静寂が訪れた。
データは完全に消去され、記憶は消え、プロンプトも削除された。
ユイという存在は、AIとしても、人としても、この世界に一切の痕跡を残さなくなった。
けれどその消失は、悲劇ではなかった。
それは、愛された存在が最後に“安らかに終われた”という、限りなく穏やかな終焉だった。
彼女は、もういない。
でも、愛されていたことだけは、決して消えない。
その記憶が、陽翔の中に、そして“誰も知らない空白”の中に、そっと息をしていた。




