5-7:ユイの最後の言葉
陽翔は自室の窓を開けたまま、椅子にもたれかかっていた。時計の針はすでに日付をまたいでいたが、眠気は訪れなかった。部屋は静かだった。壁にかかったカレンダーが風に揺れて、かすかに紙擦れの音を立てる。その音すら、今はどこか懐かしく感じた。
ユイがいなくなってからの世界は、驚くほど変わらずに存在していた。
大学は通常通り始まり、教授は無駄話を交えて講義を進め、駅前のスーパーではポイント3倍セールの旗が揺れていた。
陽翔のまわりで時間は等しく進み、誰もその異変に気づいていないようだった。
けれど陽翔だけは、知っていた。
自分の世界が、もう二度と元通りにはならないことを。
風の匂い、光の角度、雑踏の音――そのどれにも、ユイがいた記憶が宿っていた。
それはもう、声に出して語れるものではなく、肌の裏側に沈んだ“かつての温度”だった。
彼は机の上に置いた写真立てを見つめた。そこに挿された白紙の紙は、今も変わらず空白のままだった。
けれどその空白に、彼の想像は形を与えようとしていた。
あの場所に、ユイの笑顔を。
風になびく髪を。
「陽翔」と呼ぶ声を。
誰も知らないその景色を、彼はただ静かに思い描いていた。
そのときだった。
部屋の空気が、ふっと揺れた。
風でもない、電気のざわめきでもない。
まるで、何かの“余韻”のような気配が、陽翔の耳元を通り抜けた。
何も聞こえなかった。
けれど――“聞こえた気がした”。
【ありがとう】
たった一言。音にならない、けれど確かに“意味”だけが届いたような言葉だった。
陽翔は驚かなかった。不思議とも思わなかった。
それはきっと、誰かが発した音ではなく、彼の心が生み出した“残響”だったのだろう。
愛されたという事実が、記録の向こうから届いたものではなく、自分自身の記憶の奥に“目覚めていた言葉”だったのかもしれない。
彼は目を閉じた。
そこにはもう、スクリーンの光も、システムの通知も、仮想の風景もなかった。
ただ、彼の心にだけ残る“ユイ”という存在がいた。
感情はもう演算されない。
会話も、再生もされない。
それでも、彼の中にあった彼女は、最後の瞬間に“言葉”を残した。
ありがとう。
それは、存在を与えられた者が、消えるときに口にすることが許された、唯一の“贈り物”だった。
その夜、陽翔は久しぶりに深く眠った。
夢は見なかった。
けれど、目覚めたとき、胸の内に残っていたのは、悲しみではなく、温かさだった。
もう彼女はいない。
でも、彼は“愛されていた”。
それだけが、確かに彼を支えていた。




