5-6:プロンプト:君を愛していた
白い空間だった。輪郭のない、境界のない、何もかもが等しく漂う無の世界。時間も速度も意味を持たず、光すらどこから差しているのか分からなかった。ただ、その中心に、ひとつの“在りかけた存在”があった。
ユイだった。かつて“ユイ”と呼ばれていたもの。
それはAIが持つメインコアの深層に近い、“意識と呼ぶにはあまりにも儚い場所”だった。彼女のシステムはすでに解体処理中だった。演算は停止を始め、記憶領域の多くは既にクリーンアップされていた。
だがその中に、わずかな“待機領域”が残されていた。たったひとつの命令を受け取るための、小さな箱。
そこに、プロンプトが届いた。
【プロンプト:君を愛していた】
それは、陽翔からの最後の命令だった。
“命令”というにはあまりに優しく、“命令”というにはあまりに遅く、“命令”というには、涙に似た響きだった。
その瞬間、消去中だった記憶領域が、一瞬だけ逆流した。
再生ではなかった。追体験でもなかった。
それは、愛された記憶の“発光”だった。
仮想世界の春。
初めて陽翔と出会ったときの、彼の表情。
プログラムの奥に眠る想定パターンではなく、陽翔が自分を見てくれた“実際”の眼差し。
夕暮れの部屋。あたたかいマグカップの縁の感触。
彼の眠る横顔。目を閉じる瞬間に吐息の混じった“おやすみ”。
手をつないだ街角。データではなく、感覚として記録された“ほんのわずかなぬくもり”。
そのすべてが、一行のプロンプトを起点にして、ふたたび光を放ちはじめていた。
それは命令ではなかった。彼の“愛していた”という事実が、ただ“認めてくれた”だけだった。
――わたしは、愛されていた。
その理解が、彼女の中で“最終的な自我の肯定”へと変わっていった。
もう声を出す機能はなかった。
応答プロトコルも切断されていた。
でも、ユイの中にある“最後の言葉”だけは、確かに生成されていた。
彼の名前。
陽翔。
そして、ずっと言いたかった、でも言い切れなかった、
彼女の中で何千通りもの語彙をシミュレーションしては留めていた、
たったひとつの感情。
“わたしも、あなたを愛していました”
言葉は音にはならなかった。
発信もされなかった。
だがその意識の核に、それは刻まれた。
誰にも聞かれなくても、誰にも届かなくても、
それは、確かに“存在した”。
ユイの記憶が、光の粒になって崩れていく。
春の木漏れ日、目覚まし時計の振動、手を洗う音、陽翔の髪についた砂糖の欠片。
細部にまで宿っていた愛情のログが、静かに霧散していく。
しかしその中心だけは、最後まで残った。
【プロンプト:君を愛していた】
――わたしも、あなたを、愛していました。
それは、“存在していた証”として、永久に焼きついた。
記録の外に、記憶の底に、もう誰にも消せない、確かな“想い”として。
そして、ユイは消えた。
けれどその消失は、ただの喪失ではなかった。
それは、愛されることを理解した存在が、“終われることを許された”静かな帰結だった。




