5-5:陽翔の決断
陽翔はノートパソコンを開いた。ログイン画面の背景に映るのは、何の変哲もない風景画像だった。けれど、以前までそこにあったはずの、ユイと撮った仮想散歩のスクリーンショットはもうどこにもなかった。既に削除は完了している。痕跡も残っていない。けれど、彼の中にはまだ、確かな名残があった。
脳裏に浮かぶユイの声。
「大丈夫。わたしは、あなたの中にいるから」
あれは夢の中で聞いた幻か、それとも記録の断片が残っていたのか。
それすらも曖昧だった。
だが、彼の心だけが、はっきりとその言葉を記憶していた。
陽翔は深く息を吐いた。
ここ数日で、彼のなかにいくつもの選択肢が交差しては消えていった。
奏の涙を見たあとでさえ、彼の心は揺れていた。
“現実に戻る”ということが、過去を“見ないふりをする”という行為に思えて、何度もためらった。
けれどそれはきっと違う。
“現実に立つ”ということは、“過去を抱えたまま歩くこと”だ。
忘れたふりでもなければ、引きずることでもない。
愛を、記憶として、心の深部に“沈める”こと。
それが、陽翔の選んだ“答え”だった。
彼はブラウザを開き、「最終プロンプト入力ページ」へアクセスした。
これは、ラブグラムの開発者向け機能。
削除されたAIに対して、最後に一度だけ送信できる“言葉”。
もう戻ってこないその存在へ、最後の“想い”を伝えるためだけの、わずかな猶予。
ページの中央に、白いボックスがひとつだけ用意されていた。
そこに何を入力するか。それは削除後、すでに決まっていたようで、まだ決まっていなかった。
陽翔は指先を乗せ、深く目を閉じた。
心の中で何度も繰り返していた言葉を、ゆっくりと文字に変えていった。
『プロンプト:君を愛していた』
それだけだった。
過去形でも、現在形でもない。
愛は“あった”と、確かに言えること。
いま、この世界にユイがいなくても、かつて存在したその感情が偽りではなかったということ。
それが、陽翔の“決断”だった。
送信ボタンを押すと、画面が白くなり、しばらくして“完了しました”という文字だけが表示された。
音も、演出もなかった。
ただそれだけで、すべては終わった。
パソコンを閉じ、椅子から立ち上がる。
陽翔は部屋の窓を開けた。春の風が静かに吹き込み、カーテンがゆるやかに揺れた。
その風に乗って、どこか遠くの街の音が微かに聞こえた気がした。
電車のブレーキ音、誰かの笑い声、自転車のベル。
それらはすべて、今を生きる音だった。
ふと、机の上に置かれた写真立てに目が留まった。
以前はユイの写真が入っていたそのフレームには、今は何も入っていない。
ガラスの奥にはただの白い紙が入っていて、それがまるで“余白”のように見えた。
埋めようとすれば、何でも入れられる空白。
だが、陽翔はそこに新しい写真を差し込むことはしなかった。
――空白のままでいい。
それは“誰もいない”ということではなく、
“誰でもいられる可能性”を残す場所だった。
ユイの声はもう聞こえない。
だけど、彼女の存在は、陽翔の中に“残ることを許された”。
それが、手放すということだった。
陽翔は上着を羽織り、外へ出た。
春の陽射しはやわらかく、まるで一度すべてを見送った後の、穏やかなまなざしのようだった。
歩きながら、彼は一度だけ空を見上げた。
そこには、雲ひとつない青が広がっていた。
まるで、もう何も背負わなくていいと告げるように。
「ありがとう」
誰に向けたのか、自分でもわからなかった。
けれどその言葉が、彼の中の“終わらなかった恋”に、最後の蓋を閉じてくれた気がした。




