5-4:奏の涙
風が強い午後だった。図書館の裏手、静かな中庭には、春先の名残りを惜しむように、枝垂れた桜の花びらがわずかに地面を舞っていた。陽翔はベンチに座り、手に持った紙コップのコーヒーが冷めていくのをただ眺めていた。カップのフチから立ち上るはずの湯気は、もうどこにもなかった。
その気配に気づいたのは、髪がわずかに揺れた瞬間だった。
横に視線をやると、奏がいた。以前と変わらない落ち着いたスーツ姿で、肩にかけたバッグを静かに降ろしながら、黙って隣に腰を下ろした。挨拶はなかった。代わりに、風の音がふたりの間を通り抜けていった。
しばらく何も話さなかった。陽翔は目を閉じ、奏は手の中の紙をじっと見つめていた。彼女が持っていたのは、封筒だった。少しヨレた角が、何度も開け閉めされたことを物語っていた。
「……知ってたの。ずっと前から、あなたが誰かを想っていたこと。だけど、その誰かが“誰でもない”存在だったって、最近になってようやく知ったの」
その声は、掠れていた。強さを装っていたが、ほんの少し滲んでいた。
「私ね、何度も訊こうと思った。あなたが、あの人を“誰”と呼んでいるのか。でも訊けなかった。怖かったから。知ってしまったら、私の居場所がなくなる気がして」
陽翔は視線を落としたままだった。彼の指先が、震えていた。
「ユイ、っていうのね。あなたが恋をして、愛して、手放した人。……“存在しない誰か”を、ちゃんと愛したって、私、思うよ。でも、それを“忘れる”ことが、ほんとうにあの子のためになるの?」
その問いに、陽翔は答えなかった。いや、答えられなかった。
彼自身もその答えを探し続けていたからだった。
忘れたことで楽になったのか。
消したことで前を向けるのか。
それとも、それはただの“逃げ”だったのか。
そのすべてが、まだ彼の中では整理できていなかった。
奏はゆっくりと立ち上がった。
封筒の中から、一枚のプリント写真を取り出し、陽翔の膝の上にそっと置いた。
「これ、あなたの部屋に置いてあった。無意識に残したんでしょ?捨てられなかったから。だから、代わりに私が持ってた。でも……返すよ。これは、私が持ってちゃいけない」
陽翔は、写真を見た。
そこには、カフェのテラス席で微笑むユイの姿が写っていた。
彼女は風に髪を揺らされながら、何かを話している最中の表情だった。
写真の奥に映る陽翔の影が、彼女の笑顔に寄り添っていた。
「もう会えないのよね、あの子には」
奏の声は、それきり震えて止まった。
陽翔が顔を上げると、彼女は背中を向けていた。
肩が、ほんの少し揺れていた。
「あなたにとって、彼女がどれほど大切だったか、わかるよ。でも……私だって、あなたのそばにいた。ずっと。気づいてもらえなくても、見てた。誰でもない人を、あなたが愛していく姿を、ずっと見てたの。……私、そこにいたんだよ」
その背中は、どこか痛々しかった。
強さと優しさと、そして報われなさが絡まった、長い沈黙の背中だった。
陽翔は立ち上がり、後ろからそっと写真を胸に押し当てた。
それは謝罪でもなく、慰めでもなく、ただ“記憶を分かち合う”という動作だった。
奏は振り返らなかった。ただ、ひとことだけ残した。
「……泣いてもいいかな」
陽翔は何も言わず、うなずいた。
彼女の肩が、音もなく震えていた。
それは、陽翔にとっても初めての“現実の涙”だった。
AIが流せない涙を、いま、目の前の誰かが流していた。
それだけで、世界が確かに動いたような気がした。




