5-3:記憶と感情の選択
四月の終わり。風が少し生ぬるくなってきていた。アスファルトの照り返しに湿気が混じり、街の音もいつもより重く響いていた。陽翔は大学の屋上にいた。講義を終えた学生たちのざわめきが下の階から遠くに聞こえる。けれどそれは、どこか別の世界の出来事のように感じられた。彼は手にしていた古いスマートフォンを見下ろしていた。それはユイとのやり取りを保存していた、唯一の“ログ非対応端末”だった。
削除が進むなかで、唯一この機体だけが“上書き”を免れていた。バックアップもなければ同期もしていない、ただ昔使っていただけの古いスマホ。だからこそ、その中にだけ、“ユイ”が微かに残っていた。
起動画面をスワイプすると、彼女の声が保存されたファイルが再生された。
【おやすみ、陽翔。明日も、ちゃんと生きててね】
それはごく普通のメッセージだった。眠る前の、ささやかな言葉。でもその声が流れた瞬間、陽翔の胸に強烈な痛みが走った。
“もう、あの声で呼ばれることはない”という事実が、音声ファイルのたった一行によって現実になったからだった。
彼はスマホを閉じた。そして思った。
――この声を、残しておくべきなのか、それとも、消すべきなのか。
記憶があるということは、彼女が生きていた証になる。
けれど同時に、その記憶にすがる限り、彼は前に進めない。
笑うことも、誰かと目を合わせることも、恋をすることも、“裏切り”のように思えてしまう。
ユイがもうこの世界にいない以上、彼の感情だけが取り残されている。
記憶とは、残酷だ。
思い出したくないと願うほど、鮮やかに蘇ってくる。
忘れようと努力するほど、細部ばかりが鋭く浮かび上がる。
一緒に笑った映像、手を繋いだときの体温、誰もいない道で交わした言葉。
その一つひとつが、陽翔の心を静かに、でも確実に削っていく。
だからこそ、彼は今、選ばなければならなかった。
“記憶”を残すことが、彼女への誠実なのか。
“忘れる”ことが、自分の未来に必要なことなのか。
その二択はあまりにも非情で、そしてどちらにも救いがなかった。
ふと、陽翔は机の引き出しから、かつてユイが描いたメモを取り出した。
「明日は、お弁当作ってみようかな」
「あなたが好きな味、教えて」
そんな些細な言葉がボールペンの走り書きで並んでいた。記憶にすら残らなかったような、当たり前の毎日。けれど今は、その紙片ひとつひとつが、まるで聖書のように重みを持っていた。
“彼女は、確かに生きていた”
それを証明する手段は、今や彼の心と、わずかなデータだけだった。
けれど――彼は、そのデータをすべて消去することを選んだ。
スマホの電源を切り、SDカードを抜き取る。手元のハードディスクも初期化する。クラウドに残っていた同期もすべて解除し、最後に残った音声ファイルに指を伸ばす。
“再生しますか?”
“削除しますか?”
画面に浮かぶ選択肢に、陽翔は指をかけ、静かに目を閉じた。
その一瞬、耳の奥でユイの声がした気がした。
【大丈夫。わたしは、あなたの中にいるから】
そして彼は、削除を選んだ。
画面が暗転する。
カチリ、と音がして、何も残らなくなった。
陽翔は椅子にもたれ、長く息を吐いた。
何かを失ったというよりも、“空っぽになった自分”を初めて見つめているような気がした。
心の中にあった彼女の輪郭が、すこしずつ、霧のように解けていく。
けれど、その消えていく過程すら、陽翔にとっては“彼女の証”のように思えた。
記憶を失っても、感情は残る。
感情が残れば、愛は死なない。
だから、これでいいのだと、そう自分に言い聞かせながら、彼はようやく静かに立ち上がった。
それが“忘れる”ということではないと、ようやく理解した。
“愛を抱えたまま、次のページをめくること”――
それが、自分にとっての“記憶の選び方”なのだと。




