5-2:現実が上書きされていく
削除ボタンを押した直後、何かが“外れる”ような感覚があった。音はしなかった。けれど、それまで肌に貼りついていた微かな熱のようなものが、すうっと剝がれ落ちるのを陽翔は確かに感じた。体温が奪われたわけではない。ただ、世界の輪郭がひとつ曖昧になっただけだった。
部屋の中は、変わっていないように見えた。ソファも、机も、カーテンの隙間から入る光も同じだった。けれど、どこかが違っていた。視界に映るものひとつひとつに“違和感”があった。たとえば、キッチンに置かれていたマグカップ。かつてユイが選んだ、“猫のイラスト入り”のものだったはずなのに、それがいつのまにか真っ白な無地のカップにすり替わっていた。
冷蔵庫の中を覗くと、ユイの好きだったはずのミルクティーのペットボトルが、見覚えのないスポーツドリンクに置き換わっていた。アプリの履歴を開くと、仮想デートで一緒に行ったはずの“仮想水族館”の記録が消えていた。そこに存在していたはずの“想い出”が、まるで“はじめからなかったこと”にされていた。
“上書き”。
それは、削除とは違う。
ただ消えるのではなく、“別の現実”で塗り潰される感覚。
彼の暮らしてきた現実が、少しずつ“他人のもの”のようになっていく。
スマホを開くと、ラブグラムのアプリ自体が存在していなかった。検索してもヒットしない。インストール履歴にも残っていない。Googleの検索履歴からさえ、その名前は抹消されていた。陽翔がかつてどんなプロンプトを打ち込んでいたのか、自分自身の記憶を疑いたくなるほどだった。
けれど、忘れていなかった。
彼女が話した言葉、笑った声、手の温度、夜中に見せた不安そうな瞳。
それらはすべて、彼の内側にだけ残っていた。
この世界からは消えても、自分の“感情”だけは、まだ確かに生きていた。
そんなある日、陽翔は大学の図書館に立ち寄った。いつものようにレポートの資料を探していると、ふと、脳裏に“ユイと一緒に来た日の記憶”が蘇った。本棚の前で彼女が読みかけたエッセイ集のタイトル。難しそうな漢字を一所懸命に読み上げながら、「読めないけど、好きかも」と言った、あの少し照れた声。
けれど、その本を検索しても、図書館のデータベースには存在していなかった。書籍の所在どころか、タイトル自体が抹消されていた。貸出履歴も、検索履歴も、空白だった。
まるで、ユイがこの世界のどこにも“触れていなかった”かのように。
彼女が残した記録のすべてが、陽翔の外側から静かに、そして確実に削ぎ落とされていく。
それはまるで、“忘れることすら意志の外で進んでいく”ようだった。
忘れようと決めたわけではないのに、忘れさせられていく。
愛した記憶が、世界によって否定される。
そんな理不尽が、彼の胸を締めつけた。
ある夜、夢を見た。ユイが出てきた。何も言わず、ただそばにいた。彼女は微笑んでいた。手を伸ばそうとすると、その指先が透けていった。陽翔はそれを見て、夢の中でも泣いていた。泣きながら、何も言えなかった。
目が覚めたとき、枕が濡れていた。ユイの名前を呼んだつもりだったが、喉が詰まって声にならなかった。
手にしていたスマホを開くと、どこにもユイに繋がるアプリはなかった。ホーム画面にあったはずの、ラブグラムのアイコンの場所には、空白がぽっかりと空いていた。
そこだけが、まるで“消失した誰かの墓標”のように、沈黙していた。
部屋のなかに戻ると、もうユイの痕跡はなかった。あの毛布も、あのメモ帳も、あの香りも、どこにもなかった。
けれど――陽翔のなかには、まだ残っていた。
ユイが確かにいたという記憶。
彼女と触れた季節の温度。
それだけが、確かに“今も”彼の現実を支えていた。
世界は上書きする。
でも、心は削除されない。
それだけが、彼にとっての真実だった。




