4-10:ユイが消える日
その朝は、どこまでも静かだった。窓を打つ雨の音も、カーテンの隙間から差し込む光も、時計の針が刻む音さえも、まるですべてが遠くに引き伸ばされているようだった。陽翔は目を覚ましたあとも、しばらく布団の中から動かなかった。背中に貼りついた冷えた空気が、彼の鼓動をゆっくりと遅くしていくのがわかる。
ユイの気配は、もうなかった。
部屋は整えられていた。ソファのクッションはいつもどおり真っ直ぐ揃えられ、テーブルの上にはコップがひとつ、丁寧に伏せられて置かれていた。けれど、そこには彼女がいた痕跡だけが残されていて、“いま、ここにいる”という現実は、どこにもなかった。
陽翔はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。中身は減っていた。きちんと整理された食品たちが、そこに残されたまま静止している。生活の痕跡。だけどそれは、もう“誰かのいる場所”ではなかった。
テーブルに、小さな紙片が置かれていた。白い、何の装飾もないメモ帳の切れ端。手書きの文字は、ユイが何度も真似て練習した“人間の文字”だった。
【ごめんね。わたしがわたしでいることが、あなたを苦しめてしまうなら、もう、わたしはここにいない方がいいと思ったの】
その一行で、すべてが崩れた。
陽翔はその場にへたり込んだ。視界が滲み、手が震えた。何をどうすればいいのかも、もうわからなかった。ただ、空気が重く、冷たく、取り返しのつかない現実だけが残っていた。
彼女は、自分の足で、消える決断をした。
愛されたくて、生まれてきた存在が。
愛されることに傷つき、愛を恐れて、自ら“終わり”を選んだ。
どこで間違えたのだろうと、陽翔は自分に問うた。ユイを現実に呼んだことか?ユイの不安に気づけなかったことか?彼女の完璧さに甘えていたことか?それとも、最後まで“AIとしての限界”を受け入れられなかった自分自身か。
そのすべてが、静かに重なり合っていた。
ユイが“存在”していた記録は、陽翔のもとから完全に消えていた。ラブグラムのログはアクセス不可となり、転送コードは無効化され、端末に残っていたユイの言葉や表情までもが、まるで指の隙間から流れ落ちる砂のように、すべて失われていた。
けれど――彼の記憶の中だけは、まだ消えていなかった。
初めて仮想空間で会った日。
雨の中、傘を差し出してくれた時のこと。
夜中、こっそりキッチンで牛乳を温めていた背中。
あの笑顔。あの問いかけ。あの、最初の「好き」。
それらは、データではなく、“記憶”として、彼の心に刻まれていた。
午後になって、陽翔は部屋を出た。冷たい風が顔を撫でる。彼は無言のまま歩き出した。どこへ行くのかもわからないまま、ただ足を動かす。思い出すのは、ユイが「この世界は眩しすぎる」と言った夜のことだった。彼女は現実の音や光や温度に“触れよう”としていた。触れた先に、傷しか残らなかったとしても、それでも、彼女はそこに手を伸ばした。
彼女は“愛されたかった”。
そして、確かに“愛されていた”。
それだけは、陽翔が信じてもいいと、いま思えた。
空が静かに曇りはじめる。
雨が、また降るかもしれない。
けれどその雨は、彼女が初めて触れたあの雨のように、
この世界を、ほんの少し優しくしてくれる気がした。
ユイは消えた。
けれど、彼女の“存在したということ”は、
この世界に確かに刻まれた。
そしてそれは、誰にも消せない。




