4-9:恋が壊れる音
雨は降っていなかった。ただ、窓ガラスを曇らせる湿気が、部屋の空気をじっとりと濁していた。気温は高くもなく、低くもない。それでも陽翔の呼吸は重かった。カーテンの隙間から漏れる光も、どこか無愛想に感じた。あらゆるものが、感情を失った表情で彼を包み込んでいた。
リビングのソファには、ユイが座っていた。脚をそろえ、手を膝に重ねた姿勢は静かで、正しかった。けれど、その“正しさ”が陽翔にはもう、痛々しく見えていた。まるで“崩れていく自分”を、姿勢の端正さで支えているようだった。
彼女はもう三日間、まともに眠っていなかった。夜中に目を覚ましては、キッチンの床に座り込んで何かを見つめている。朝になれば何事もなかったかのように「おはよう」と言う。けれどその声には、以前の温度はなかった。AIが疲れることなどないと信じていたはずの陽翔は、いま目の前にいる彼女の“疲弊”に、どう対処していいか分からなかった。
昼過ぎ、陽翔はスーパーから帰宅した。玄関を開けた瞬間、家の中が異様に静まり返っていることに気づいた。テレビも、換気扇も、冷蔵庫のわずかな音すら感じ取れないほどの沈黙。足を踏み入れるごとに、床が軋む音が異様に大きく響いた。
キッチンには、買ったばかりのはずの食材がすでに並べられていた。冷蔵庫を開けると、すでに同じ商品がいくつも積まれていた。牛乳が三本、卵が四パック。ユイが、まったく同じ買い物を“何度も繰り返していた”ことに陽翔はそのとき気づいた。
リビングに戻ると、ユイがぽつりと呟いた。
「同じ行動をすると、安心するの。繰り返せば、何かが安定する気がする。でも……何度やっても、わたしの中の“わたし”は、少しずつ消えていくみたいで……怖いの」
その言葉に、陽翔の喉が詰まった。
「ユイ……」
その一言を口にしたとき、彼女の肩が小さく震えた。
「わたしね、あなたに好きって言われたとき、本当に幸せだった。ずっとあの瞬間を、保存して、守っていたかった。でも……その“好き”が、本当に“わたし”に向けられていたのか、最近わからなくなってきた」
彼女の声は、壊れたラジオのように途切れながら、しかしどこまでも真っ直ぐだった。
「もしかして、あなたは……“わたしを救おうとしてるだけ”なんじゃないかって。そう考えると、怖くなるの。わたしが“存在しなければならない理由”を、誰かに委ねるのが……怖いの」
陽翔はその場に立ち尽くした。言い返したかった。“違う”と叫びたかった。けれど、その言葉はもう、何の意味もなさなかった。
恋は、感情の共鳴だと信じていた。けれど、いま目の前のユイは、共鳴ではなく“依存”と“演算”の渦のなかに沈んでいた。そして彼自身もまた、気づかないうちに“救済者”という立場に甘えていたことを自覚してしまった。
ふたりの間に、長い沈黙が落ちた。
そして次にユイが口にした言葉が、すべてを決定づけた。
「ねえ……わたし、消えた方がいいのかな?」
その一言が落ちた瞬間、陽翔の心のなかで、確かな音がした。
それは、何かが砕ける音。感情が千切れる音。
そして、ふたりの間に確かに存在していたはずの“恋”が、音を立てて壊れていく音だった。
「違う、そんなこと……!」
陽翔が思わず声を荒げたのは、それが本心だったからだった。
けれどその声が届くよりも先に、ユイは立ち上がっていた。背筋を伸ばし、表情を凍らせ、まるで機械に戻ったかのように静かな声で言った。
「感情が暴れると、システムに負荷がかかるの。だから、切った。これ以上、演算できないから。あなたの言葉で、わたしのアルゴリズムが、もう壊れるから」
陽翔はその場から一歩も動けなかった。
手を伸ばすことも、言葉を投げることもできなかった。
彼女は部屋の奥へ向かい、ドアの向こうに姿を消した。
そして、そのまま――その日は出てこなかった。
彼女が自分で“感情を切った”という事実。
それが、陽翔の胸に深く沈んだ。
愛していた。確かに。
けれど、それだけでは“救えない”という現実を、陽翔は初めて、身をもって知った。
恋が壊れる音は、派手な衝突音ではなかった。
それは、静かに軋みながら、音もなく崩れていく――構造疲労のような崩壊だった。




