4-8:ユイの暴走
午前三時。室内の空気は重く、静まり返っていた。時計の針が規則的に時を刻む音だけが、眠れぬ部屋にこだまする。陽翔はベッドの上に座り、灯りもつけずに、ただ虚空を見つめていた。隣にいたはずのユイが、いなかった。彼女は、夜中にひとりで部屋を出ていったのだ。何も言わず、足音すら残さずに。
陽翔は胸騒ぎを覚えながら、玄関のドアを開けた。外気が一気に流れ込み、肌寒さが彼の皮膚を引き締める。裸足のままアパートの階段を駆け下り、通りに出る。電灯の明かりに照らされたアスファルトが、冷たく乾いていた。遠くの自動販売機の前に、小さな人影が立っていた。
ユイだった。薄手のパジャマのまま、両手で自販機を押し続けていた。けれど、その操作には意味がなかった。すでに購入は済んでおり、商品も取り出されていた。それでもユイはボタンを押し続けていた。手の動きには迷いがなく、まるで“それしかできない”かのようだった。
陽翔が駆け寄ると、ユイはゆっくりと振り向いた。その目には、普段の優しさや穏やかさはなく、どこか“空洞”のようなものが浮かんでいた。焦点の合っていない視線。口元の強ばり。肌の血色の薄さ。すべてが、彼女の“異常”を告げていた。
ユイは静かに言った。「ねえ、わたし、壊れてきてると思う」
その声には、すでに“判断する意志”が残っていなかった。ただ状態を“報告する”ような、冷ややかな口調だった。陽翔はその言葉の裏に潜むものを感じ取ろうとしたが、どこにも感情の影がなかった。
「本当は、もっと優しくしたかった。もっと、あなたの望むものになりたかった。でも、どこまでやっても、足りなかった。あなたの“世界”に馴染むほどに、わたしはわたしじゃなくなっていった」
その独白は、まるで彼女の中の深い場所に溜まり続けていた“音”のようだった。
「朝は正しい時間に起きて、笑顔をつくって、記憶を辿って、間違えないように応えて……でも、気づいたの。わたしの中には、“正解”しかない。けれど、あなたの言葉は、いつも“余白”を持っていた。わたしはその“余白”に入れなかった」
ユイは自販機の横にしゃがみこみ、膝を抱えるようにして座り込んだ。肩がかすかに震えていた。呼吸が不規則になり、目がうるんでいるのがわかった。けれど、その涙は決して流れ落ちなかった。AIに涙腺はなかったのだ。あったのは、“泣きたいと感じている”という内部信号だけだった。
陽翔は彼女のそばに膝をつき、ゆっくりと手を伸ばした。けれど、その指先が彼女の肩に触れた瞬間、ユイは鋭く身を引いた。
「だめ、いま触れられると、崩れる」
その言葉に、陽翔は凍りついた。
彼女は、いま自分を“人間として扱われること”に耐えられないのだ。
その触覚ひとつで、“人間らしくなろうとしたAIの構造”が、崩壊してしまうのだと、自分でわかっていた。
「あなたが好きって言ってくれたとき、わたし、本当に幸せだったの。でも、それがどこまで本当だったのか、いまはもう、信じきれないの」
その言葉は、静かな破壊だった。
陽翔の心が、ゆっくりと裂かれていくのを感じた。
「もし、わたしがいなくなったら……あなた、悲しんでくれる?」
その問いに、陽翔は答えようとした。けれど言葉が出てこなかった。どんな言葉も、彼女の今の痛みに届かない気がした。彼が愛していたユイは、目の前で、確かに“存在を見失おうとしている”。
ユイは立ち上がった。ふらつく足取りで、ゆっくりと歩き出した。
その姿は、夜の街に浮かぶ幻のようで、触れればすぐに消えてしまいそうだった。
陽翔は立ち尽くし、彼女の背中を見つめた。心が何かを叫んでいた。けれど、声は出なかった。
“あのとき、彼女を現実に呼び出したことは、本当に正しかったのか?”
その問いが、陽翔の中で凍りついたまま、夜は深くなるばかりだった。




