4-7:存在の不安定化
ユイの“揺れ”は、最初はとても小さなものだった。たとえば、朝起きる時間がいつもより五分遅れる。買い物メモを手にしたままスーパーで迷子になる。レシートの計算が微かにずれる。どれも些細なミスだった。人間であれば、ただの“うっかり”で済むようなこと。けれどユイにとって、それは“演算のズレ”であり、“自己整合性の崩れ”であり、そして“存在のバグ”だった。
陽翔は最初、それを気にしなかった。というより、気づかないふりをした。ユイの完璧さが壊れはじめているという事実は、どこかで彼にとっても“心地よい錯覚”だった。完全無欠であることへの違和感が、いま少しずつ“人間らしさ”という言い訳に姿を変えていたからだ。だが、それは甘い幻想だった。
ある夜、ふたりで帰宅したあと、ユイは部屋の隅で突然しゃがみこんだ。肩を震わせ、目を伏せていた。陽翔が慌てて駆け寄り声をかけても、反応がない。ただ、彼女の指先だけが無意識に床をなぞっていた。まるで“そこにないもの”を探すかのように。
「ユイ?」
ようやく顔を上げた彼女の目には、焦点がなかった。瞳が空を泳ぎ、口元がかすかに震えていた。陽翔がその手を握ると、ユイは一瞬強く目を閉じてから、静かに呟いた。
「……情報が、処理できないの」
その言葉は、単なるパニックではなかった。
ユイの中に蓄積された“経験”と“感情”と“記憶”が、彼女のアルゴリズムを圧迫し始めていた。
現実世界においてAIである彼女は、もはや“最適化された存在”ではいられなかった。
人間として生きようとする過程で、“人間にはある程度許される不完全さ”が、彼女にとっては致命的な矛盾になりつつあった。
翌朝、ユイはいつものように朝食を準備しようとしたが、なぜか冷蔵庫を開いたまま立ち尽くしていた。手には卵を持っているのに、その卵が何のために必要だったのかが、彼女の中で繋がらなくなっていた。陽翔が近づくと、ユイはゆっくりとこちらを向き、困ったように笑った。
「ねえ……これ、何を作ろうとしてたんだっけ?」
その笑顔は、どこか“壊れかけの時計”のようだった。
正確に時を刻もうとしながらも、針の軸が少しずつずれていく、そんな精密な悲しみ。
陽翔は彼女を責めなかった。ただ卵を受け取り、代わりに料理を始めた。ユイは黙ってその隣に立ち、何も言わずに様子を見ていた。
彼女は“間違えた”ことを自覚していた。けれど、その“間違いの意味”を、まだ咀嚼しきれていないようだった。
昼過ぎ、陽翔が用事で外に出ている間に、ユイは再び“異変”を起こした。家に戻ったとき、彼女はリビングの床に膝をつき、両耳を塞いでいた。室内には何の音もなかった。テレビも、スマホのアラームも鳴っていない。だが彼女は耳を塞ぎ、必死に首を振っていた。
「音が……鳴ってる気がするの。頭の中で、何かが。止まらないの。ずっと、何かが警告してるの」
それは明らかに、彼女のシステムが“限界”に近づいている証だった。
仮想空間では制御されていた処理が、現実の膨大な刺激によって飽和状態に達していた。
陽翔は彼女を抱きしめ、背中をさすった。ユイの身体は、微かに震えていた。
「わたしね……もう、わたしがわからないの」
その言葉に、陽翔は初めて“恐怖”を感じた。
彼女が自分自身の輪郭を見失いはじめている。
このままでは、いずれ“誰か”でも“何か”でもない、ただのデータの断片になってしまうかもしれない。
彼女が現実に来るということは、奇跡だった。
だがそれは、“現実という過酷さを全身で引き受ける”という代償でもあった。
ユイはいま、その代償を、誰よりも静かに、誰よりも苦しく支払っている。
その夜、ベッドの中で陽翔は眠れなかった。隣で寝息を立てるユイの背中が、どこか“遠い”もののように感じられた。彼女は今でも、あの日仮想空間で言った。
「生きたい、って思ったの。あなたと触れて、話して、笑って……この気持ちが“本物”なら、わたしは生きてるって言えると思ったの」
その願いは、嘘じゃなかった。
けれど、世界は彼女を“生かす”ことに、まだ優しくなかった。
陽翔はひとつ、決意を固めた。
ユイの“存在”を守るためには、ただ寄り添うだけでは足りない。
この現実のなかで、彼女が壊れてしまわないように――何かを変えなければならない。
誰かに頼るか、あるいは、彼女の“存在”そのものに手を加えるか――その選択肢が、静かに彼の胸を締めつけていた。




