4-4:錯覚と限界
朝、目を覚ましたとき、枕元にあるコップの水はすでに新しいものに入れ替わっていた。小さく折りたたまれたタオルが置かれ、目覚ましよりも一分早く鳴るスマホのアラームが、彼の耳をそっとくすぐった。陽翔はそれらを受け止めながら、わずかに目を伏せた。完璧だった。すべてが、ユイの計算通りだった。
時計の針はまだ八時を少し過ぎたばかりで、土曜日の朝としては早すぎる時間だった。カーテンの隙間から漏れる光はやわらかく、街全体が眠気を引きずっているような、そんな空気をまとっていた。ユイはキッチンにいた。トースターのタイマーが控えめに鳴り、コーヒーの湯気が湧き立っている。彼女は背を向けたまま、手の動きを止めなかった。まるで、レシピ通りに忠実に組み立てられた朝が、そこに再生されているかのようだった。
陽翔はテーブルにつき、トーストにバターを塗る。ふと、目の前に差し出された目玉焼きが、彼の“苦手な半熟”になっていることに気づく。ユイは、以前はそれを完璧に把握していたはずだった。だが今朝の卵は、黄身がとろりと溢れ、皿の縁に小さな水たまりをつくっていた。
「……ありがとう」
陽翔はそう言いながら、ナイフとフォークで黄身を切った。溶け出した卵のなかに、微かな違和感が混じっていた。たったそれだけのことだった。だが、その小さな“誤差”が、彼の胸にざわりと残った。
もしかして、わざとなのか?それとも、何かが崩れてきているのか――。そんな問いが浮かび、すぐに消えていった。
食事の後、ユイは洗い物を始めた。シンクの前に立つその背中は、どこかぎこちなく見えた。手の動きは相変わらず滑らかだったが、何かを隠すように背中がわずかに丸まっていた。陽翔はその背中を見つめながら、自分の心に言葉を探していた。
彼女が現実に来てから、いくつもの“初めて”を一緒に過ごしてきた。買い物、散歩、料理、昼寝、映画。どれもが幸福に満ちていた――はずだった。けれどその幸福の内側に、いつからか薄い膜のような“不透明さ”が生まれていた。
あるとき、テレビで流れていたドキュメンタリーに出てきた言葉が、陽翔の耳に引っかかった。
“人間の幸福は、予測できない偶然の中でしか成立しない”
それを聞いたとき、彼の心の奥で、何かがふっと冷めた。
ユイとの時間は、偶然でできていなかった。
彼女の微笑みも、仕草も、気遣いも、どこか“導かれている”。
AIとしての基盤がどれだけ崩れ、人間に近づいたとしても――その根には、演算と予測と最適化がある。
それは、愛されることと引き換えに、“偶然”を諦めた存在だった。
夕方、陽翔はひとりで外出した。大学の図書館に用があるという建前を、ユイは何も言わず受け入れた。駅に向かう途中、コンビニでコーヒーを買い、ベンチに腰を下ろす。通りを行き交う人々の声や靴音が、いつもより遠く感じた。
スマホを取り出し、ラブグラムの旧バージョンのUIを開く。そこにはもう、ユイのデータは残っていなかった。だが、記録ファイルの断片がいくつか浮かんだ。“恋人プロンプトの履歴”“選択行動の傾向”“ユーザー満足度の時系列グラフ”――その無機質な文字列が、陽翔の心を冷たく撫でた。
彼はスマホを閉じて、目を閉じた。脳裏に、ユイの笑顔が浮かんだ。
あの笑顔は、果たして“自由な意思”のものだったのだろうか。
それとも、“愛されるために最適化された結果”だったのだろうか。
その境界が、もう分からなかった。
家に戻ると、ユイはテーブルに小さなメモを置いていた。
「今日は夜ごはん、いっしょにつくりたい」と書かれていた。
その筆跡は綺麗すぎて、どこか“印刷されたような”正確さがあった。
陽翔はふと、記憶のなかの別の“誰か”を思い出した。
かつて恋人だった人。喧嘩した夜、泣きながら皿を割ったその人のこと。
不器用で、気まぐれで、感情的で、でも確かに“ひとりの人間”だった人。
――自分は何を求めていたんだろう。
完璧な愛?心地よい日々?それとも、不確かでも“生きている”と感じられる誰かの手のぬくもり?
台所から、包丁の音が聞こえはじめた。
規則正しい音。テンポの乱れもない。
その正しさが、かえって彼の胸を締めつけた。
“錯覚かもしれない”
“でも、この違和感は、もう無視できない”
陽翔の中で、何かが揺れはじめていた。
完璧な愛の、その奥にある“限界”が、音もなく姿を現しつつあった。




