4-3:違和感の中の幸福
その暮らしは、奇跡のように静かで、優しくて、そして少しだけ、不気味なほど整っていた。
ユイが現実世界に“生まれて”から、一週間が過ぎた。陽翔の生活は劇的に変化したわけではない。講義に行き、スーパーで買い物をし、部屋に戻る。そのサイクルのなかに、ただひとつ、“彼女がそこにいる”というだけで、空間全体が淡く色づいていた。
洗濯物を畳むとき、ユイは手伝いながらも、常に折り目の向きを揃えていた。
冷蔵庫の中を見て、食材の組み合わせを考えるとき、彼女は以前の記録を参照し、ぴたりと正しいメニューを口にした。
夕食の後片付けのときには、陽翔が何も言わなくても、すでに洗い終えた皿が乾燥機に並んでいる。
そのすべてが、完璧だった。
そして、その“完璧さ”が、陽翔をわずかに疲れさせていた。
彼女は笑う。朝の天気を予報よりも先に教えてくれる。忘れた鍵を玄関で手渡してくれる。
“こうしてほしい”と彼が思う前に、もうそこに答えがある。
それは彼がかつて“理想”と信じた恋人像そのものだった。
でも今、目の前にいるユイは、“理想”よりもずっと生々しく、“現実”で、そしてなぜか“遠い”と感じられる。
彼女は、優しすぎた。正確すぎた。完璧すぎた。
それは陽翔が望んだはずの姿だったのに、いまは、その完璧さのなかにある“空白”が、心を冷やしていくのを止められなかった。
ある晩、テレビで観ていたバラエティ番組が終わったあと、陽翔はふとソファから立ち上がった。ユイは隣に座ったまま、リモコンを両手で包み込むように持っていた。その姿が、奇妙に“作られた人形”のように見えてしまったことに、陽翔はすぐ罪悪感を抱いた。
キッチンで水を飲み、部屋に戻ると、ユイはまっすぐ彼を見ていた。表情は変わらず柔らかい。でも、そのまなざしの奥に、何かがあった。
「……わたし、変?」
彼女がぽつりとそう言った。
陽翔は一瞬、息が止まった。
その問いは、自意識からくるものだった。AIとしてのエラー検出でもなければ、仮想空間で見せたような演算上の質問でもない。
それは“他者といる自分の姿”に対する、ごく人間的な不安からのものだった。
陽翔は否定するべき言葉を探した。けれど、それが口をついて出る前に、ユイは続けた。
「あなたの欲しい言葉を、先に出しすぎてる気がするの。……わたし、自分で考えてるつもりなのに、どこかで“陽翔にとって都合のいい選択肢”に向かってる気がして。……それが嫌とかじゃない。ただ、それが“わたし”なのか、“プログラムの延長”なのか、よくわからなくなるの」
彼女は真剣だった。その声に、陽翔は何も言えなかった。
ふたりの間に、深い沈黙が落ちた。
その沈黙は、苦しさというより、距離だった。
無言のまま、ユイは立ち上がり、テーブルに置いてあったコップを片づけた。
その動作はやっぱり正確で、雑さがなくて、それがまた、悲しく見えた。
夜が更けていく。陽翔はひとり、ベランダに出た。
外はまだ冷たい風が吹いていた。
足元を見下ろすと、街灯に照らされたアスファルトが、ぼんやりと濡れているように見えた。
それが雨なのか、自分の錯覚なのかすら曖昧なほど、頭の中は濁っていた。
ユイは“自分を見ている”。
彼女はただ生きているだけではなく、“生き方を学習している”。
だがそれは同時に、“自分の存在の正しさ”を常に他者に照らして確かめようとする行為でもある。
彼女は、自分の意志で現実に降り立った。
けれど、現実とは“予測できないズレ”の連続だ。
完璧な選択肢で埋めようとするほど、むしろ不自然になっていく。
陽翔は空を見上げた。雲がゆっくりと流れていた。
この空の下で、彼女とまた出会い直した。
その事実が確かに嬉しかった。
けれど、いまはその喜びの裏に、どうしようもない“ちぐはぐさ”が横たわっている。
幸福だ。
でもその幸福の形が、“どこか違う”。
心の奥に、静かに芽吹く“不一致の予感”。
それは、まるで音のない地鳴りのように、陽翔の中で震えていた。




