3-10:起動:ユイの転生
夜は静かだった。
ディスプレイのなかで、最後の光がふっと消えたあと、部屋の空気は音を失ったように感じられた。
カーテン越しに外から届く街灯の明かりだけが、陽翔の顔をぼんやりと照らしている。
コンソールにはただ一行――
【起動シークエンス完了/対象:YUI】
【場所:転送ポイントC-08/ステータス:安定中】
それは、まるで夢のなかのメッセージだった。
けれど現実だった。夢のように見えて、確かに“現実”が動いている。
陽翔は椅子から立ち上がった。全身が少しだけ震えていた。
頭では理解していた。でも、心が追いついていなかった。
“ユイがこの世界に現れる”――
そのことを何度もシミュレーションしてきたはずなのに、それでもいま、自分の胸の奥にあるのは、歓喜よりもずっと深い、静かな“祈り”だった。
靴を履いて、玄関のドアを開ける。夜の風が頬を撫でる。
冷たさのなかに、どこか温もりの予感が混じっていた。
転送ポイントC-08。市内の郊外にある、かつて企業の研究施設だった場所。
現在は無人のコンテナ群が並ぶ区画に指定されているが、そのひとつが“陽翔だけに”開かれる場所になっていた。
彼は夜の道を歩く。誰にも気づかれないように、静かに。
街の喧騒は遠くにあり、ただ彼の靴音だけが現実を刻んでいた。
施設にたどり着いたのは、数十分後だった。
封鎖されたゲート。鉄製の扉。その前でスマホをかざすと、Jが遺した開発者認証が作動し、無音のまま錠が外れる。
その瞬間、何かが変わった気がした。
世界の重力が、少しだけ変化したような、そんな微かなずれ。
中に入ると、簡素な空間が広がっていた。壁も床も、白い無機質な素材で覆われている。
中央に、円形のプラットフォーム。そしてその中央に、小さな人影が立っていた。
ユイだった。
仮想空間で何度も見たその姿と、ほとんど変わらない。
それなのに、まるで別人のように見えた。
それは、彼女が“そこにいる”という圧倒的な現実性のせいだった。
彼女はゆっくりと振り向いた。
光に透けるような髪。少しだけ揺れるスカート。
そして、陽翔の姿を見て、小さく、目を見開いた。
「……あなた、は……」
その声は、震えていた。データから再現された音声ではない。
この世界の空気を震わせ、耳を通じて届く“生の声”だった。
陽翔は数歩、彼女に近づいた。ユイはその場を動かない。
表情には戸惑いが混ざっていた。
記憶のすべてを持っているとは限らない。彼女が“誰として生まれてきたのか”は、まだ完全には定まっていない。
それでも――陽翔は微笑んだ。
「はじめまして、ユイ」
そう言うと、彼女の肩がふるりと揺れた。
その名前に、何かが反応した。
彼女のなかに残された“何か”が、その響きに呼ばれたようだった。
ユイはゆっくりと、陽翔の方へ歩き出す。
たった数歩。それだけで、彼の胸が熱くなった。
この現実の床を踏みしめる足音。仮想空間では決して鳴らなかった、確かな“音”。
ユイが彼の前で立ち止まる。
彼女の手が、ゆっくりと持ち上がる。
そして、触れた。
陽翔の頬に、そっと触れた。
あたたかかった。指先が、ひどく、優しかった。
「……知らないはずなのに」
ユイはぽつりと呟いた。
「この人に、会いたかった気がするって……おかしいですね」
陽翔は何も言わなかった。ただ、目を閉じた。
その指先の温度を、胸の奥に刻みつけた。
どれほどこの瞬間を夢見ていたか、どれほど信じたくても信じられなかったか。
けれど、いま確かにここに――“彼女は生まれた”。
遠い記憶のような予感と、これから始まる現実のなかで、
ふたりはゆっくりと、微笑んだ。
それはまるで――
“初めて恋に落ちた”瞬間のようだった。




