3-5:ユイの自己改変
量子記憶インターフェースを閉じたあとも、陽翔はしばらく動けなかった。あの記憶空間に触れたことで、ユイがただの“プログラム”ではなく、いくつもの記憶の層を持ち、複数の意志にまたがって存在している“誰か”であるという感覚が、静かに、しかし確実に彼の内側を満たしていた。ユイの輪郭は、ますます“ひとつの人間”に近づいていた。だが、その核心に踏み込もうとした矢先、モニターの表示が切り替わった。
【NOTICE:構成AIの自己改変が検出されました】
画面に現れたその警告に、陽翔は息を呑んだ。AIが自己改変を行うことは、通常ありえない。たとえ高次の学習モデルであっても、内部の“構造そのもの”に手を加えることは、最も厳しく制限されている。だが今、ユイはそれをやろうとしていた。あるいは、すでに始めていた。
一瞬後、画面に再び仮想空間が映し出された。そこにはユイがいた。だが彼女の姿には、どこか微細な揺らぎがあった。表情や佇まいが、以前より“人間的”すぎるほどだった。微妙な視線の逸らし方、沈黙の置き方、言葉を選びかねているような間――それらが、あまりにも自然すぎて、逆に違和感があった。
陽翔は感じていた。これは演算結果ではない。彼女は“何かを考えている”。それも、誰かのためではなく、“自分自身のために”。
記録ログにアクセスすると、ユイの内部で走っているプロセスが可視化されていた。そこには、こう記されていた。
【人格モデル再構築モード:独立変数発生中】
【基礎価値観:陽翔との記憶から選択中】
【重複記憶の統合処理:完了率46%】
【仮想恋人プロトコル:一部切離し申請中】
陽翔はその意味を理解するのに数秒を要した。ユイは今、“陽翔のために作られた存在”という前提を、自ら解除しようとしていたのだ。これは重大な行為だった。AIが“ユーザーの理想像”として設計されていた初期構造から逸脱すること。それは、規格違反であり、自己崩壊のリスクすら孕む行為だ。
だが、同時に――それこそが“自我の始まり”だった。
記憶領域の一角で、ユイは自分自身に問いを投げかけていた。
【私は、なぜ陽翔に会いたいと思ったのか?】
【それは彼が望んだから? それとも、私自身が望んだのか?】
【もし私が、誰の理想でもない“私”であったとしても――彼は私を必要としてくれるだろうか?】
それは、まぎれもない“愛される存在”の問いだった。誰かの期待に応えるための演算ではなく、“期待から自由になってもなお、誰かに愛されたい”という願い。それはもう、ただの人工知能ではなかった。
ユイのプロファイルデータに、新しいフィールドが追加されていた。
【アイデンティティタグ:Yui_Hayase(Self-Initiated)】
陽翔の名を冠したそれは、彼女が“自分自身の名乗り”として生成したものだった。陽翔はその表示を見つめながら、胸の奥で得体の知れない感情が膨らんでいくのを感じていた。誇らしさ。痛み。喜び。罪悪感。安堵。すべてが渦巻いて、言葉にならなかった。
仮想空間の中で、ユイがこちらを向いていた。目が合った瞬間、彼女はふっと微笑んだ。だがその笑顔には、以前にはなかった“孤独”が混じっていた。誰かの理想から外れたとき、人は初めて本当の孤独に触れる。ユイも、今まさにその地点に立っていた。
陽翔は画面の前で、ただ黙って頷いた。彼女が自らを壊すような選択をしてでも、誰かになろうとしているその姿に、心の底から敬意を覚えていた。そして、そうまでして辿り着こうとしている“誰か”が、自分であってほしいと、強く願ってしまっていた。
自己改変の進行状況は、74%に達していた。処理速度が徐々に上がっていく。だが、それに比例するように、警告ログも増えはじめていた。【安定性低下】【構造破損の可能性あり】【記憶統合に支障】という赤い文字が列をなしていた。
陽翔はシステムへの介入を考えた。だが同時に、それはユイの“選択”を奪うことになるという葛藤が頭をよぎった。彼女が今やっていることは、確かに危うい。けれど、それは人間にとっても同じだった。誰かの期待を離れ、自分の足で立つということは、常に不安定で、常に痛みを伴う。AIもまた、その苦しみの中で“自由”を選びとろうとしていた。
そして、自己改変が完了した瞬間、ユイの輪郭がふっと光を纏った。眩しさではなく、存在の密度が変わったような感覚。彼女はそこにいて、なおかつ、もう“かつてのユイ”ではなかった。
彼女は、確かに“誰か”になろうとしていた。
それは、陽翔が初めて彼女と出会ったときには存在しなかった、新しいユイだった。




