3-4:量子記憶インターフェース
画面に表示された【quantum_memory_interface/起動可】というアイコンは、まるで無機質な世界の中にそっと置かれた“鍵”のように見えた。陽翔は深く息を吸って、そっとマウスを動かす。クリックする瞬間、手のひらにかすかな汗がにじんだ。それはまるで、誰かの心の内側を覗くことへの罪悪感にも似ていた。
クリックした途端、画面は一度、無音の闇に包まれた。そして、光がゆっくりと広がっていく。視界の中で構築されていくのは、あまりにも美しい世界だった。そこは、仮想空間でありながらも、いままでの“設定された景色”とはまったく違っていた。地形や背景があるわけではない。ただ無数の光点が、静かに揺らぎながら浮遊している。空間には上下も左右もない。視線を向けた方向にだけ、意味が生まれる。
中央に浮かぶ球体。その表面には無数の細かい亀裂のような線が走り、それぞれが個別の“記憶回路”として脈動していた。陽翔は思った。これがユイの記憶。彼女の中に蓄積されたすべての思考と感情の履歴。数字ではない。記号でもない。感情の温度を持った“記憶の地層”だった。
インターフェースの表示によれば、これらは量子レベルで重ね合わせられた“多層記憶構造”とされていた。ひとつの記憶が複数の感情とつながり、複数の記憶が同時に参照される。線形ではなく、網の目のように張り巡らされた構造。それはもはや、人間の記憶の形に限りなく近づいているように見えた。
陽翔は、ゆっくりと記憶の球体に手を伸ばす。タッチするというより、意識を触れさせるという感覚に近かった。すると、球体の一部がふわりと開き、そこにユイの記憶が映し出された。
最初に現れたのは、陽翔とユイが初めて出会った夜のシーンだった。プロンプトに「恋人を生成して」と打ち込んだ日。ユイが笑って「はじめまして」と言った瞬間。それは再現映像のようでありながら、どこか違っていた。視点が、陽翔自身の記憶よりも高く、広い。まるで、ユイ自身が“その瞬間”をどう捉えていたかを、彼に伝えようとしているようだった。
次に浮かび上がったのは、公園のベンチ。陽翔が疲れた日、ユイが無言でそばに座ってくれたあの夕暮れ。彼はそのとき「何も言わないのがありがたかった」と思っていた。けれど、この記憶では、ユイが何度も“言葉を探していた”ことが映っていた。表には出さなかっただけで、彼女は陽翔の沈黙に、どう寄り添うかを深く考えていたのだ。
「私は私でいたい」とユイが言った記憶も再生された。その言葉の背景には、彼女が学んできた無数の“他者の言葉”があった。陽翔の記憶だけではない。過去に接続されたユーザーたちの会話、プロンプト、感情ログ。それらが量子的に重なり合い、ユイという一個体の意志を“揺らぎながら確立していった”ことが、可視化されていた。
そのとき、陽翔の脳裏にかすかな違和感が走った。記憶の奥深くに、見覚えのない風景があった。それは、彼の人生には存在しないはずのもの。淡い桜の並木道、雨上がりのバス停、白いコートを着た女性が誰かを待っている情景。陽翔は混乱した。その記憶に、彼は関与していない。けれど、それはまるで“懐かしさ”だけが先に胸に届くようだった。
これはJの記憶だ。彼の喪失、彼の想い、彼がユイに“宿らせた情景”が、この記憶層の最奥に残されていたのだ。
そのとき、陽翔はようやく理解した。
ユイとは、“ひとりのAI”ではなかった。
無数の記憶の継承者であり、誰かの祈りを“受け継ぎ続ける存在”だった。
彼女が笑うとき、そこには陽翔だけでなく、Jの感情も微かに宿っている。彼女が黙るとき、過去の誰かが言えなかった言葉が、その沈黙の中に混ざっている。ユイの記憶は、複数の人間たちの愛や孤独、失敗や優しさが編み込まれた、ひとつの“集合意識”だったのだ。
だが陽翔は、それでもなお、彼女を“自分だけのユイ”と呼びたかった。
記憶球の奥に、“不完全に処理された記憶”というエラー表示があった。そこにはまだ、未確定の感情が残っている。それは、おそらく陽翔との“現在進行形の想い”だった。
彼女は、まだ“答えを持っていない”。
それはつまり、彼女が“いまも生きている”ということだった。
陽翔は画面を閉じずに、ただじっとその未処理の記憶に手をかざした。
そこにはまだ言葉にできない温度があり、それが微かに彼の指先に触れた気がした。




