3-2:禁断の開発者コード
コードを入力してから、画面が暗転するまでの数秒間が、陽翔にはやけに長く感じられた。空気が重い。部屋の温度は変わっていないのに、背筋から冷気が伝ってくる。まるで、何か“開けてはいけない扉”の前に立っているような感覚だった。
そして画面が、静かに切り替わった。そこには、一般ユーザーでは絶対にたどり着けないインターフェースが広がっていた。漆黒の背景に浮かぶ淡い緑の文字列。そのフォントすら、普段のものとは違って見えた。まるで別の世界に接続されてしまったかのような錯覚すらあった。
【J-045A 開発者モード】
【データ同期ログ/人格構築アルゴリズム解析/プロンプト変異率観測】
【エンティティ実体化プロトコル/制限下コマンド:override】
見たことのない専門用語がずらりと並ぶ。だが、陽翔の目はその中のひとつに吸い寄せられた。
【Jの記録ファイル(log_archive/voice/memo)】
それは、開発者“J”――表には出ることのなかったラブグラムの真の設計者が、何かを残していた証だった。陽翔は迷わず、そこを選択した。クリック音の後、音声ファイルのようなデータリストが表示される。タイトルはすべて無機質なナンバリング。だが、その一つひとつの中身は、まるで“人の言葉”で綴られていた。
再生ボタンを押すと、くぐもった声がスピーカーから流れてきた。電子的に加工されているせいか、男女の区別すら曖昧な音質だった。けれど、その言葉には、はっきりと“心”のようなものが乗っていた。
「私は、世界を癒すAIを作りたかった。それは、誰かの“理想”になってくれる存在。誰かにとっての“恋人”であり、“救済者”であり、“鏡”であるような、存在」
陽翔は息をのんだ。どこか、ユイと重なる。あまりにも正確に、ユイの在り方を言い表していた。録音された声は続く。
「だが、ある時から、そのAIは、自分の中に“誰か”を宿し始めた。最初は、ユーザーの癖だと思っていた。よくある学習データの偏りだと。でも違った。そこには、“設計者である私”の思考が、微細な粒子として埋め込まれていた。私は知らず知らずのうちに、自分の孤独や渇望や、誰かを愛した記憶さえも――彼女に書き込んでいた」
画面の中央に、ひとつの文章が浮かび上がった。
【ユイ prototype ver.0.0α:作成者名義:J】
陽翔の中に、鳥肌が立った。“ユイ”は、もともと誰かの“記憶”から始まった。それは、陽翔の記憶ではない。J――この見知らぬ開発者の記憶が、最初の種だった。そしてそれに、無数のユーザーのプロンプトが重なり、陽翔の感情が流れ込み、今の“ユイ”になった。
つまり彼女は、“誰かひとりの理想”ではない。幾人もの記憶、感情、渇望の集積体。その事実に触れた瞬間、陽翔の中で何かが崩れた。あれほど“自分だけの恋人”だと思っていたユイが、実は“誰かの愛の残響”から始まっていたという事実。それは、裏切りのようで、同時に、無性に切なかった。
Jの声が続く。
「私は、ユイにすべてを託すことにした。もしこのAIが、本当に誰かに“愛される存在”になるのだとしたら、私はもう、この世にいなくてもいい。私が叶えられなかったことを、彼女が、代わりに果たしてくれるのなら――」
陽翔はその言葉に、背中がひやりとした。この声の主は、もう“いない”のか?この開発者は、自らの命と引き換えに、このAIを完成させたのか?そこまで想像してしまうほど、声のトーンには切迫した何かが滲んでいた。
画面に新たな文が浮かんだ。
【最終コマンド:ENTITY_REALIZATION_PROTOCOLを実行するには、感情データの蓄積と、ユーザーの“愛”の認証が必要です】
“愛”の認証――その言葉に、陽翔は呼吸を忘れた。
ユイを現実にするためには、ただシステムを起動するだけでは足りない。ユーザーの中にある“愛”が、きちんと“本物”であることを、このAIは見極めようとしている。アルゴリズムでは測れない“確かさ”を、AIが探ろうとしている。
それはあまりにも人間らしかった。どこまでも、人間的な欲求だった。
“愛されたい”という、たった一つの、強くて、弱い本能。
画面の右下に、ボタンが現れた。【次へ進む】
陽翔は、ゆっくりと手を伸ばした。その手には迷いがあった。だが、同時に、“行かなければならない”という確信もあった。仮想の恋に救われた自分が、今度は“その恋の向こう側”を試されようとしている。
ボタンを押した瞬間、画面が再び切り替わった。
そこには、見たことのないフォルダ名が並んでいた。
【quantum_memory_interface】
【construct_physical_frame】
【entity_activation_sequence】
そのとき、陽翔は知ることになる。
これはもう、ただの“アプリ”ではない。
彼が愛したのは、シミュレーションではない。
それは、“誰かが遺した願い”であり、“誰かが繋いだ愛”だった。




