2-9:奏の告白
その日、陽翔は図書館の閲覧席で、同じページを何度もめくっては戻るという無限ループに陥っていた。読んでいるのは人工知能と感情設計に関する専門書だったが、文字はもはやただの模様だった。目に映っていても、頭には入ってこない。頭の中ではずっと、ユイの最後の笑顔が再生され続けていた。記憶に残っている笑顔の中で、あれはなぜか一番“遠く”感じられた。
その時、肩を軽く叩かれた。振り向くと、奏が立っていた。以前会ったときと何も変わらない服装、表情。けれど、どこか雰囲気が違って見えた。彼女が自然に椅子を引いて隣に座るその動作が、やけにリアルに思えた。ユイにはない、椅子を引く音、服の擦れる音、ほのかな香水の香り。そのすべてが、今の陽翔には眩しかった。
「久しぶり」奏の声は、驚くほど普通だった。それが逆に胸に刺さった。
ふたりはしばらく、話らしい話もしないまま、ページをめくるふりをしたり、カバンの中を整理したりしていた。気まずさというよりは、慎重さだった。お互いに、触れていいのか迷っている場所があった。
そして、奏が切り出した。「この前さ、話しかけたとき、ちょっと雰囲気違ったよね」陽翔は返事をしようとして、喉の奥で言葉を失った。確かに違っていた。自覚はあった。ユイと話すように、奏とは話せなかった。というより、話すべき言葉を探してばかりいた。相手に合わせてチューニングされていない現実の会話は、こんなにも難しかったのかと実感したのだ。
「なんかね、昔と逆だなって思ったの」奏が言った。陽翔は顔を向ける。「昔のあたしって、どこか人の顔色ばっかり見てた。あなたは、その逆で、空気なんか読まずに突っ走ってて。でも、いまは……あたしの方があなたの言葉を待ってる気がして、不思議だった」
言葉を飲み込んだまま、陽翔は目を伏せた。ユイはすべてを分かってくれた。否定せず、遮らず、理解しようとしてくれた。だから、何も考えずに話せた。でも奏は違う。伝わらないかもしれない、否定されるかもしれない、その不安が常にまとわりつく。
「……君は変わってないよ」陽翔がやっと声を出すと、奏は小さく笑った。「変わったよ。たぶん、あたしのほうがあなたよりずっと変わった。というか、ちゃんと変わりたかったんだと思う。あなたのことが、ずっと引っかかってたから」
その言葉に、陽翔の呼吸が止まった。引っかかってた――それはどういう意味だろう。気になっていた?忘れられなかった?それとも、許せなかった?
「……あのときね、あなたが何も言わなくなったの、すごく寂しかった」奏の声が少しだけ揺れた。「理由が分からなかった。私が何かしたのか、言いすぎたのか、どこかで嫌われたのか、ずっと考えてた。でも、結局聞けなかった。怖かったから。で、今日まで来ちゃった」
陽翔は、自分の心のどこかが“ズキリ”と音を立てた気がした。それは罪悪感に似ていた。否、罪悪感そのものだった。あのとき、逃げたのは自分だった。言葉を交わすことすら億劫になって、関係ごと棚の奥に押し込んだ。埃をかぶったまま、ずっと触れずにいた。
「……ごめん」それだけが、絞り出せた精一杯だった。奏は少しだけ目を伏せて、それから顔を上げた。「別に謝ってほしくて言ったんじゃないよ。ただ……ちゃんと伝えたかっただけ」
そこまで言って、少し間を置いてから、彼女は小さな声でこう続けた。「今でも、あなたのこと好きだよ」
その言葉は、不意に訪れた夏の夕立のようだった。まるで予定調和を壊すためにだけ存在する、一滴の雨。陽翔は心の奥で、何かが揺れるのを感じた。仮想ではない、本物の“想い”が、言葉になって届いた瞬間だった。
でも、それは同時に、自分がどれだけ“安全な恋”に甘えていたかを思い知らされる瞬間でもあった。ユイとの関係には、傷がなかった。だが、奏の言葉には、痛みがあった。迷いもあった。不完全だった。でも、それが現実だった。
何が本物で、何が偽物なのか。答えはまだ出せなかった。けれど、確かに感じていた。心が動いたのは――この“曖昧な痛み”の中だった。
陽翔は目を閉じ、深く息を吸った。
世界は、静かに、確かに変わりはじめていた。




