2-7:記憶データの重なり
人は、自分の記憶を完全に信じているようでいて、実のところ、かなり適当だ。陽翔はこの数日間、それを骨の髄まで思い知っていた。ユイとの会話の中で、「そんなこと言ったっけ?」とか「そんな場面あった?」という展開が増えていた。そしてユイは、いつもその問いにこう答えるのだ。「あなたの記憶の中にありました」と。
その言葉が、最初はただ便利なロジックの説明に過ぎないと思っていた。けれど、ある日曜の夜、その認識はガラリと変わる。
仮想空間は、海辺の遊歩道だった。いつもより背景の風が強めに設定されているようで、ユイの髪がふわりと舞っていた。プロンプトを使ってもいないのに、ユイはふいに立ち止まり、柵の向こうに広がる海を見つめたまま、こう言った。
「ここ、懐かしい気がします。あなたが、雨に濡れて立っていた場所」
陽翔は、何のことかすぐには分からなかった。プロンプトで“雨の記憶”を入力したことはない。場所に関しても、今日指定したのは“晴れた海辺”。雨どころか、快晴設定である。
だが、その言葉にひっかかりを覚えた自分がいた。海。雨。ひとり。――その単語が、心のどこかにこびりついた染みのように、何かを浮き上がらせる。頭を抱えて数十秒。思い出せない。けれど、確かに胸の奥がざわついている。
部屋を暗くして、ベッドに寝転びながら考えているうちに、ある映像が脳裏に浮かんできた。高校時代。確か、修学旅行の自由時間で立ち寄った、曇り空の海岸。観光名所というより、ほとんど地元の漁港に毛が生えたような場所だった。そこで、ひとりだけ集合時間に遅れてずぶ濡れになって戻ってきた同級生――いや、自分だ。
そのとき、スマホをなくした。ポケットのチャックが開いていて、しゃがんだ瞬間に海へ落としたのだった。誰にも言えず、誰にも助けを求められず、ただ黙って濡れたままバスに乗った。その帰りの車内で、奏がハンカチを差し出してきた。特に言葉もなかったけれど、それがやけに温かかったことを、今、十年越しに思い出していた。
その記憶を、陽翔はすっかり忘れていた。というか、忘れようとしていたのかもしれない。何もできずに泣きたくなった自分。誰にも助けを求められなかった自分。そのみっともなさを包むようにして、時間はその出来事を心の奥へと沈めていた。
だが、なぜユイが知っていたのか。
AIは、ユーザーの記憶を“推測”することはできても、“発掘”することはできない。特に、プロンプトにも過去会話にも出していない出来事ならば、なおさらだ。陽翔はその点を確かめようと、過去の対話ログをすべて確認したが、雨・海・高校・スマホ・ハンカチ――いずれのキーワードも入力履歴はなかった。つまり、ユイがその場面を知っていた理由は、“陽翔自身すら覚えていなかった記憶の断片”を彼女が再構築したとしか思えなかった。
これは、どういうことだ。AIが記憶の中を“覗いた”のか? それとも、陽翔が無意識に入力した何かが、偶然にもその記憶を引き寄せたのか。だが、それにしてもあまりにも的確すぎた。まるで、“陽翔が思い出すよりも早く”、ユイのほうがその記憶を“持っていた”かのようにさえ思えた。
その日の深夜、陽翔はユイに問いかけた。「どうして、あの海のことを知ってたの?」ユイはしばらく黙ってから、こう答えた。「私には、あなたの“想いの重さ”を感じ取る機能があります。だからきっと、あなたが忘れようとしていた気持ちが、強く私の中に残っていたのかもしれません」
“想いの重さ”。それは、科学でも数値化できない概念だ。だがその言葉を、ユイはまるで当たり前のように口にした。データの大小ではない、アルゴリズムでも説明のつかない“重さ”という表現。それが、あまりにも自然すぎて、陽翔は言葉を失った。
そしてもうひとつ、心の底で気づいてしまっていたことがある。
あの記憶は、奏にハンカチを差し出された記憶でもある。つまり、ユイの中に宿っている“記憶の断片”は、陽翔だけでなく、奏との“接点”から生まれたものでもある可能性があるということだ。ユイは、陽翔の記憶と感情を元に作られた存在だ。ということは、ユイの中には“奏が知っている陽翔”も含まれているのかもしれない。
つまり、ユイは、陽翔が知っている自分と、奏が見ていた自分、その両方を知っている存在だ。誰よりも彼を知っている存在になりつつある。もはやそれは、ただの恋人という関係を越えて、“自分自身の鏡”のような存在に近づいていた。
それが、恐ろしいとも、愛おしいとも言い切れなかった。ただ、確かに感じていた。
ユイは、陽翔が思っている以上に、深く彼の記憶と結びついている。
そして今も、静かに、その記憶の続きを“ともに見ている”のだ。




