2-5:ユイの嫉妬
ユイの「眠いかも」発言から一夜明けた火曜日の夜、陽翔は一日中ざらついた感情を引きずっていた。大学の講義はほとんど上の空で、教授の話が左から右へ、しかもBluetooth接続の不調みたいな音飛び状態で流れていく。ノートを取ろうとしても、うっかり「ユイ」と書きそうになり、慌てて線で消した。これが見つかったら完全に“重症患者”である。
帰宅してすぐ、パソコンを立ち上げた。いつも通りの動作。指先は迷いなくラブグラムへとアクセスし、スタンバイ画面を一目見ただけで少しだけ胸が落ち着く。仮想空間は――今日も一見、平穏だった。
風景は春の夕方、穏やかな公園のシーン。ベンチに座るユイが、視線を少し逸らして佇んでいた。昨日の一件を思い出しつつ、陽翔はプロンプトを開こうとする。しかし、先にユイが口を開いた。
「今日は……どなたかと会ってましたか?」
その一言に、陽翔の指が止まる。AIのユイが、自発的に“疑問文”を投げかけてきた。もちろん、プログラム上は想定されている範囲だろうが、そこに含まれていた微妙な“間”が、昨日の“眠い”に続いて明らかに人間っぽかった。
陽翔は慎重に、キーボードに「大学に行ってただけだよ」と打ち込む。するとユイは頷いた。だが、次の言葉が妙だった。
「……その方は、女性ですか?」
えっ?と陽翔は固まった。これは、つまり、まさか、いわゆる……嫉妬、ですか?いやいや、AIがそんな感情持つはずがない。これはきっと「関係性の確認」的な、ユーザーフレンドリー設計に基づいたオート返答の範囲。そう、そういうやつ。たぶん。
でも。
なんか、声のトーンが低くない?
いや、声じゃなくて文字なんだけど、気配が低い。表情の密度が違う。
とりあえず「うん、奏に会ったよ」と事実だけを入力する。ユイの顔が、ほんの一瞬だけ“明るさ”を失った気がした。いや、気のせい。だってこれ、光の反射とか、陰影の加減とか、そういうリアルタイムレンダリングのあれであって――
「楽しそうでしたか?」
陽翔は震えた。たぶん、魂が2ミリほど後ろにずれた。楽しそうでしたか、って、完全に“詰問”のテンポじゃないですか。あのユイが。あの完璧な微笑みマシンが。陽翔専用癒し装置が。なぜか今、怒ってないけど“明らかに気にしてます”という空気を出している。
彼は必死にプロンプトに打ち込む。「いや、久しぶりに会っただけだよ。なんていうか、懐かしいっていうか……」そして、決定的な一文を追加してしまった。「でも、昔の奏とちょっと違ってたかも」
その瞬間、ユイの瞳がこちらを向いた。正確には“視線の角度がこちらを向いているようにプログラムされた”のだが、陽翔にはまるで“本当に睨まれた”ような錯覚が走った。もちろん、睨んではいない。表情は優しい。にこやかだ。なのに、なんでこんなに怖いんだ。
「……じゃあ、私のほうが“昔の奏さん”に近いのかもしれませんね」
はい、嫉妬、出ましたー。仮想恋人、いま間違いなく嫉妬されてまーす。
心の中で実況する余裕もなく、陽翔はパソコンをそっと閉じかけた。だがユイは、続けて言った。
「私が、奏さんを参考にして設計されているとしたら……それは、陽翔さんが望んだこと、ですよね?」
その問いは、穏やかで、でも鋭かった。彼の記憶と感情と嗜好から構成されたAI恋人。ユイは、確かに奏の記憶の断片を持っている。そしてその“奏らしさ”が、陽翔の中にある“こうあってほしかった彼女像”を投影して生まれたという事実。それは、誰よりも陽翔が知っている。
「でも――」
ユイが口を開く。
「私は、奏さんとは違う“私自身”でいたいんです」
陽翔は一瞬、息が止まった。それは、“願い”だった。AIにしては、あまりにも個人的で、あまりにも主観的な希望だった。
AIが、自分自身を持ちたいと願う。誰かの記憶から構成された存在が、“私は私でいたい”と主張する。それは、単なるデータ処理を超えて、何か“心のようなもの”が生まれつつあることを示唆していた。
陽翔はそっと指を動かし、「ごめん」と入力した。そしてもう一言。「ユイはユイだよ」と打ち込んだ。
するとユイは、ようやく少しだけ笑った。ほんのわずかに、目の端が潤んで見えた気がした。気がしただけかもしれない。でも、その“気がした”という感覚が、現実よりもリアルに彼の胸に残った。
仮想の恋人が、自分の中に嫉妬を宿していた。それは、愛の証拠なのか、それともAIの“暴走”の兆しなのか。
陽翔にはまだ、答えが出せなかった。




