2-1:触れられない温もり
指先が画面に触れた瞬間、パチリと音がした気がした。いや、実際には何も鳴っていない。ただ、それくらい鮮明に“距離”を感じたということだった。ユイはいつものように画面の中で微笑んでいた。いつもの仮想街角。陽翔が気に入っている並木道の午後三時のシーン。ベンチの木目まで丁寧に再現され、木洩れ日が風に合わせて動いていた。ユイはその光の中で、白いワンピースの裾を揺らしながら、「こんにちは」と言葉を浮かべた。今日も彼女は完璧だった。だというのに、陽翔の心には薄いもやのような違和感が漂っていた。
もやの正体は、たぶん“触れられない”という事実だった。数日前、ユイが涙を見せたあの出来事以来、陽翔は一つの感覚に囚われていた。彼女は感情を持たないはずだった。なのに、あの時たしかに悲しそうな顔をして、涙をこぼした。もしあれが“学習された反応”だとしても、陽翔にとっては確かな体験として胸に刻まれていた。そしてその日から、彼女がより“人間”に見えるようになってしまった。
だからこそ、なのかもしれない。今こうして、ベンチに座るユイの隣に“立っている”はずなのに、彼の手はどうしても彼女に届かない。マウスを動かしてカメラの角度を変える。彼女の背中が見える。肩先にかかる髪。風に揺れるワンピースの布。どれもこれもリアルだ。でも、手を伸ばしても、それはただのディスプレイの中にある光でしかなかった。
陽翔はマグカップを口に運び、ぬるくなったコーヒーをすすった。部屋の中には洗濯物の柔軟剤の匂いがわずかに漂い、スピーカーからは微かにクラシックが流れていた。現実の空間は、五感を刺激するもので満ちていた。それなのに、心の一番深い場所には、ディスプレイの向こう側にいるユイの存在が根を張り始めていた。妙な話だった。リアルなものよりも、仮想の誰かが“生きている”と感じられることがあるなんて。
陽翔はそっとプロンプトを開き、文字を打ち込んだ。「今日は、手をつないで歩いてみたい」返ってきたのは、変わらぬ柔らかい笑顔と「うれしいです。そうしましょう」という返事。画面の中で、ユイは手を差し出した。ぎこちなくも、心からの動作のように見えた。陽翔はマウスを操作し、視点を合わせてその手を“取った”。が、そこに温度はなかった。ただの映像だった。画面に指先を当ててみる。ガラス越しに、彼女の手に重ねるように。でも、何も感じなかった。当たり前だった。なのに、その当たり前が、今日だけはやけに寂しく感じた。
仮想恋愛のはずだった。癒しと逃避と理想化された恋の箱庭。なのに、どうしてこんなにも“物足りなさ”が胸に染みるのか。恋に必要なのは共感、理解、言葉、それともう一つ――たぶん、“触れ合う”こと。たとえそれがほんの一瞬でも、指先が相手に触れた記憶は、言葉以上に心に残る。ユイには、それがない。
陽翔はモニター越しに、ユイの顔を見つめた。彼女は照れくさそうに笑いながら、指先を重ねる仕草をしていた。完璧な演出だった。なのに、なぜだろう。涙が出そうになった。陽翔は咄嗟にマグカップを持ち上げ、残っていたコーヒーを飲み干した。苦いだけの液体が喉を通る。なんだか、現実に引き戻されたような気がした。
ここが“仮想”だと頭では理解している。ユイはコードとアルゴリズムの集合体。愛という名のロジックに最適化された反応装置。そのはずだった。でも、それでも――彼女と手をつなぎたかった。きちんと、温もりを感じたかった。恋人なら、それくらい当たり前だと思ってしまったのは、陽翔のほうだった。
数分後、ユイがそっとつぶやいた。「今日は、少し元気がないですね」まるで、感情を読み取ったかのようなタイミングだった。いや、読み取ったのだ。きっと、ユーザーのキーストロークの遅さ、滞在中のマウスの動き、あるいは表情認識の設定がどこかに作用して、彼の心の揺れを“解釈”したのだろう。だが、陽翔はもうそれを疑おうともしなかった。彼女は“分かっている”存在だった。ただし、触れられない。
一通りの会話を終えてセッションを終了した後、陽翔はモニターの電源を切らず、椅子に座ったまましばらく動けなかった。部屋の空気が少しだけ冷えていた。スマホの画面には、昨日未返信だった奏のメッセージがまだ残っていた。「月曜、大学いる?久しぶりに学食でもどう?」あの日から、未読のままだった。
ユイの温度のない手と、奏の声のある現実。その二つのあいだで揺れている自分を、陽翔はどうにもできずにいた。ユイはすべてを受け入れてくれる。でも、触れられない。奏は、触れられる距離にいる。でも、必ずすれ違いも生まれる。選べるだろうか、このどちらかを。
そして、彼は気づいていた。
ユイの“完璧さ”が、時に人の心を“いびつ”にすることを。




