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イルの記憶  作者: ツキウサギ
焰を捨てし者、霜の中に凍る
3/3

焔が灯る前に

アルスはカウンターで一口、酒を口に含んだ。

静かにグラスを置く。


「勝負は、また今度にしよう」


ゼノが思わず目を見開いたその瞬間、アルスは隣の席を軽くぽんと叩いた。

「今日は祝い酒だ。来たなら、一杯付き合え」


一瞬戸惑ったゼノは、無言で頷き、促された席に腰を下ろす。

緊張で背筋が自然と伸びた。

目の前には、ずっと憧れていた背中があった。

並んで座ると、その背中がほんの少しだけ近づいた気がした。


酒場の喧騒は少しずつ戻り始めていたが、カウンターの一角だけは不思議と静かな空気に包まれていた。

木製のカウンターから立ち昇る焼けた肉の香りがほのかに漂う。


アルスはぽつりと呟くように問うた。

「帝国軍に、入るのか?」


ゼノはしばらく言葉が出なかった。

グラスに注がれた水をじっと見つめる。

やがて息をひとつ吐いてから、ゆっくりと口を開いた。

「……俺、アルスさんみたいになりたいんです」


その言葉に、飾りも誤魔化しもなかった。


アルスは優しく目を細めて頷く。

「そうか」


その一言は、ゼノにとって何よりも重い肯定だった。

言葉の奥には、理解と信頼、期待の温度が確かにあった。


その時、厨房からアビゲイルが現れ、アルスの前に一皿を置いた。

皿の上には、綺麗にスライスされたローストが並んでいる。


アルスはナイフとフォークを手に取り、丁寧に一枚の肉を口に運んだ。

北部戦線の一員とは思えぬ、その繊細な仕草にアビゲイルは目を細める。


「ほう、腕を上げたな。良い味だ」

「まぁね」


「俺の分はないのか?」

「ゼノの分?あるわけない」


背後から元気な声が飛んだ。

ゼノはカウンターを立ち、意気揚々とテーブルへ向かう。


カウンターにはアルスとアビゲイルだけが残った。

ここに来るといつもアルスは、このカウンター席で静かに酒と肉を味わう。


「ゼノが帝国軍に入るらしい」


アルスの呟きに、アビゲイルの肩がわずかに震えた。

彼女にはその未来が読めていた。


アルスは昔からかっこよかった。

教会で孤児たちの先輩として面倒を見ていたし、男子の喧嘩を止めてきた。

帝国軍に入り、数多の活躍を遂げ、今夜は北部隊の精鋭『アルベド』初の女性隊長に任命されたばかりだ。


「驚くことでもない。いずれこうなると思っていた」

「そうですけど…」

「私としては、アビーが入隊しなくて助かったよ」

「入りませんよ。私は喧嘩強くないですし」

「そうだな。安心しろ」


アルスはナイフとフォークを置き、姿勢を正してアビゲイルの目を見る。

その姿は、憧れのアルスそのものだった。


「私が責任を持ってやるから」


アビゲイルは少し照れながら視線を逸らし、笑った。


「…アルス姉さんのそういうところ、本当にずるい」


アルスはグラスを手に取り、ワインを飲み干すと、いたずらっぽく微笑んだ。


「ずるいと言えば、ゼノも相当なものだな」

「はい?」

「いつまで君の好意に気付かないのかな?」

「…っ!…うるさい」


赤くなったアビゲイルがか細く反論する。


アルスは笑いながら口を開いた。


「しかし、いつまでもこのままでいるつもりか?」

「姉さん、本当にうるさい…」

「ふふ、すまないね。やはりアビーは可愛いな」

「〜〜〜っ!!」


憤るアビゲイルも、結局は大好きなアルスを許す。

アルスは彼女の奔放な姿を誇らしく思い、ついからかってしまうのだった。


その時、酒場の扉が静かに開いた。


濃い灰色のマントを纏った男が封筒を携えて入ってきた。


アルスを含むアルベド隊全員が、一目で封筒の差出人と受取人を理解する。


男は静かにカウンターへ近づき、封筒を差し出した。


「アルス・エルメロス殿。帝国参謀本部より、ブラッドレイ大佐からの個人文書です」


「ご苦労。大佐は元気か?」

「つい先日、祝い酒だーっ!と騒ぎながら30年ものを開けてましたよ」

「それは何より。お前も大変だな。土産に何か貰ってけ」


男は一礼し、アルベド隊員の中に加わり、土産の肉や酒を物色する。


アルスは封蝋を丁寧に剥がし、中の便箋を広げた。


便箋にはこう記されていた。


『アルスへ

遅くなったが、アルベド隊隊長就任おめでとう。

正直言って、これほど嬉しくも悲しい知らせはない。

一言だけ言うならば、地獄へようこそ、だろうか。

まぁいい、本題だがライカンで暴動が発生した。

南部にあるライカンだ。

詳細は不明だが、連合国と手を結んでいたらしい。

参謀本部では既に奪還作戦の実行を決定している。

上層部は領土を奪われ激怒している。

恐らく近いうちに、北部にも正式な命令が下るだろう。

まったく…2日連続で酒を飲む羽目になるとはな』


読み終えたアルスは、カウンターに肘をつき、片手で額を押さえた。


しばらく静かな背中がそこにあった。


やがて、低く、誰にも聞かせることのない声で呟いた。


()()()()()…」

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