ゼノという男
昼下がり、小さな丘の上でゼノは目を覚ます。
遠く、朧げで、曖昧な夢を見ていたゼノはその中で見覚えのある優しさに満ちた顔が浮かんでいたが、すぐにその夢は消えていった。
穏やかな風が顔を撫で、少しぼんやりとした状態で身体を起こす。
その瞬間、ゼノの口が無意識に開いた。
「母さん…」
その言葉に自分でも驚き、思わず頭を抱えるようにして手を押さえる。
何故そんな言葉が出てきたのか、自分でも分からなかったが、『分からない事を考えても分からないままでしょ』というアビゲイルの言葉を思い出した。
「私はゼノの母さんじゃないんだけど」
「…なんだアビーか」
「なんだとはなんだ。わざわざ起こしに来たアビーちゃんを敬ってほしいね」
身体を起こしたゼノの後ろから声がかかる。
振り返ればそこには、教会で1番の年長であるアビゲイルがいた。
愛称は「アビー」である。
「あーはいはい、ありがとうございますねー」
「誠意が込められていない」
「うるせぇ、てか起こしに来たんなら起こせよ」
「起こそうとしたらゼノが勝手に起きたんだもの」
嘘である。
堂々としすぎて嘘だと判断しずらいが嘘である。
アビゲイルはしばらくゼノの寝顔を眺めていた。
何故かって?
そういうことだからだよ
さて、それにゼノが気付くと良いが
「そうかい。んじゃ、行くかね。」
「また今日も?というか、今日ぐらいは勘弁してあげてよ。」
「良いじゃねぇか、今日だからなんだよ。」
気付く気配はないらしいですね。
⸻
「「「アルスさん!おめでとうございます!!」」」
「ありがとう諸君」
酒場「ミルルの寝床」では、ジルドア帝国北部隊の特別遊撃隊「アルベド」の新隊長の就任祝いが行われていた。
しかも、女性が隊長に選ばれ、年齢も20代という異例であったのもあり、盛り上がりは歴代最高だった。
新隊長に選ばれたのは、アルス。
雷の身体強化魔術を扱う魔術戦士で、俊敏性と即応性を兼ね備えた北部隊の切り札とも言える存在。
戦場では、雪原を縦横無尽に素早く駆け回り、一撃必殺のような曲剣の威力から、伝説の怪鳥「フェンネル」の二つ名が通っている。
「アルスさん!肉奢らせてもらいます!」
「バカ言え、こういうめでたい時は酒に決まってるだろ。アルスさん、こちら30年ものです。」
「お前ら、分かってないな。今日はさっぱりとしたサラダに決まっている。」
「あぁ、ありがたく頂こう。」
この風景は今日のような祝い事のみではない。
アルスは舌がかなり肥えている上に好みが気分によって変わる。
そして、普段冷たいアルスはその時1番食べたい物を食べると頬を緩めて微笑むのだ。
それが男たちの心を惹く。だからこそ、みんなその微笑みを見たくて貢ぐ。
ちなみに今日はどうやら当たりを引いた者はいないらしい。
そんな時、酒場の扉が勢いよく開く。
「アルスさん、おめでとうございます。今日も勝負受けてもらいますよ。」
そこにはゼノがいた。
これも今日に限った話ではなかったため、誰も不思議そうに見なかった。
しかし、ゼノの後ろで『あぁ、なんでこんな奴を…』とアビゲイルだけが頭を抱えて厨房へと消えていった。