05 濡れた髪と初◯◯
「ちぇっ、まだ降ってら」
教室の窓から外を覗きながら、九斗は唇を尖らせた。解放感で満たされるはずの金曜日の放課後にも関わらず、いまいちテンションが上がらないのは、間違いなく昼頃から降り続ける雨と暗い空のせいだ。
「でもさっきより少しはマシな方だろ」身支度を終えた冷司が、九斗の元へやって来た。「早く帰ろうぜ、また強くなるかもしれないし」
「おう、そーだな」
教室前の傘立てからそれぞれの傘を手に取り、雑談しながら混雑する廊下を進んで昇降口まで来ると、丁度靴を履き終えたばかりの黒沢と出くわした。
「あ、二人共お疲れ」
「やあ、お疲れ」
「うっす」
靴箱まで移動し、自分の靴を取りかけたところで、冷司はふと何かに気付いたように黒沢の方へ振り向いた。
「黒沢さん、傘持ってきた?」
「え? ……ああ、うん」黒沢は右肩に掛けたスクールバッグを軽く叩いた。「中に折り畳みが入ってるから」
「そうか、ならいいや」
冷司が微笑むと、黒沢もはにかんだように微笑み返した。
──顔も頭も運動神経もいいのは勿論だが、結局こーゆーとこなんだよな、冷司がモテるのは。
靴を履きながら、九斗は中学時代の様々な記憶を思い返した。
──レオもモテてたけど、やっぱ冷司と同じようなとこがあるもんな。
他の生徒たちの後に続いて外に出る途中、冷司は再び黒沢の方へと振り向き、足を止めた。黒沢は外に出ようとせず、壁側に寄ってスマホをいじっている。
「誰か待ってるの?」
黒沢は一瞬驚いた様子でスマホから顔を上げ、
「う、ううん別に……」
「傘、持ってないんだろ」
「え、そーなのか?」はっとした表情の黒沢が答えるよりも先に、九斗が後ろから口を挟んだ。「でもさっき、折り畳み持ってるって言ってたぞ」
「ああ……あはは、実は忘れちゃって。よくわかったね槙屋君」
「新谷さんと狭山さんでも待ってるのかなと思ったけど、さっき教室で、部活に行く二人と別れてたのを見たからさ」
「やっぱ名探偵だな……」九斗は呟き、一人頷いた。
冷司は黒沢の元へ歩み寄ると、自分の傘を差し出した。
「使いなよ。俺は九斗に入れてもらうから」
「えっ!? いや大丈夫だよっ!」黒沢は慌てたように小刻みに右手を振った。「もう少しこのまま待ってみるよ。小降りになるかもしれないし」
「いや、ネットの天気予報だと、今日は一日このままらしい。ほら」冷司はもう一度傘を差し出した。「返すのはいつでもいいから」
「遠慮なくどーぞ!」まだためらう黒沢に、九斗はニカッと笑ってみせた。「冷司は頑丈なんで、ちょっと濡れたぐらいで簡単に風邪なんて引きませんから!」
「お前程じゃないけどな。じゃあ、そろそろ行こう」
冷司は九斗の背中を押し、外に出るよう促した。
「あ、有難う! 明日──じゃなくて月曜日に返すから!」
「いつでもいいよ」
「黒沢さん、お気を付けて」
「うん、麻宮君も有難う!」
九斗と冷司が校舎を出て程なく、階段の方から数人の一年生がやって来た。その内の一人、隣のクラスの小泉は、スマホをスクールバッグにしまってからゆっくりと外へ向かう黒沢を、無遠慮にじろじろと見ていた。
「あーあー……」
窓を叩く無数の雨粒に、九斗と冷司の口からは自然と嘆きの声が漏れた。もうすぐ最寄駅に到着するというところで、急に雨脚が強くなってしまった。電車内のジメジメした空気も、余計に鬱陶しく感じられる。
「何だよこれ、もう少し風が強くなったら完全に嵐じゃねーか。黒沢さんに傘貸したのは正解だったな」
「ああ、そうだな」
滲んでしまい、はっきり見えない景色をずっと眺めているのもつまらないので、九斗は再び窓に背を向けて居住まいを正した。
「なあ、一旦オレん家まで来ねーか?」
冷司も視線を窓から隣の恋人へと移す。
「お前ん家まで送ってってもいいんだけどよ、もうこんだけ降ってりゃ絶対どっちもずぶ濡れになるだろ。頭乾かして、ちょっと休んでいけよ。服と予備の傘も貸してやるからさ。風邪引いちまったらマズいだろ?」
「いいのか?」
「おう」
「じゃあ、せっかくだからそうさせてもらおうかな」
最寄駅の改札を出ると、二人は走って麻宮家に帰宅した。ぐっしょりと濡れた制服とシャツ、靴下を脱ぐと、下着姿で頭と足を拭き、どちらも九斗の私服に着替える。
「やっぱり上も下もデケェな」
ぶかぶかの長袖Tシャツの裾とジーンズの太腿部分を摘んで無邪気に笑う冷司の姿に、九斗は感情の昂りを覚えた。
──な、何だこの感じ……。
「ん、どうした?」
「い、いや別に。んじゃ、シャツと靴下洗っとくから。月曜日に学校に持ってくな」
「有難う、頼むよ」
「ん!」
九斗はそそくさとその場を離れると、それぞれハンガーに掛けた二人分の制服を風呂場に干し、脱衣所で洗濯機を回した。最後に棚からカラフルなフェイスタオルを二枚引っ張り出し、リビングに戻って一枚を冷司に差し出す。
「巻いとけ」
「これブランドものじゃんか」
「そーなのか? オレにはさっぱりわからん。
先、部屋行っててくれ。麦茶とオレンジジュース、どっち飲む?」
「じゃあ麦茶で。色々と悪いな」
「気にすんな、オレとお前の仲だろ」
九斗の姿がキッチンに消えると、冷司は自分の体を優しく包んでいる大きな服をじっと見つめた。口元が緩み、どこか恍惚とした表情で小さく息を吐く。
──ヤバい、まさか九斗の服を着る日が来るなんて……。
腕を上げ、袖を鼻にそっと当てる。何と形容していいのかわからないが悪くないにおいは、洗剤や柔軟剤のそれではなさそうだ。
──家のにおい、なのか? それともあいつの──……
「おう、座ってていいんだぞ」
九斗が戻ってきた。両手で持つ丸盆には、麦茶がなみなみと注がれたコップが二つ乗っている。
「ん、ああ……」
畳の上に丸盆を置き、それを挟むように向かい合って腰を下ろす。
「早速いただくよ」
「おう」
少しだけ喉を湿らせるつもりが、冷司は一気に半分飲み干していた。思っていた以上に喉が渇いていたようだが、何となく緊張しているのも原因の一つだろう。九斗の部屋に遊びに来るのも、二人切りで過ごすのも何ら珍しい事ではないが、今の状況は普段とは若干異なる。
「おかわりしてもいいからな」
「ああ」
「本当は炭酸が良かったんだけど、切らしててな……」
コップを丸盆に戻した冷司とは反対に、自分の分を取ろうと前屈みになった九斗は、そのまま冷司の赤茶色い頭をじっと見つめた。傘では防げず、濡れてペッタリとした髪の先端には、まだ雫が付いている箇所もある。
「……どうした?」
「もうちょい、ちゃんと拭いた方がいいぞ」
九斗は冷司の後ろに回り込むと、首に掛けられているタオルを取り、遠慮なくわしゃわしゃと頭を拭いた。
「おわっ!」
「このくらいやらなきゃな! にゃはは!」
「乱暴だなおい」
冷司は文句を言いながらも満更でもない様子で、無邪気な恋人の気が済むまで自由にさせた。しばらくすると、九斗は満足げに、
「ま、こんなもんだな」
「はいどうも」
「何ならドライヤーも使うか?」
「いや、大丈夫だよ。……それよりも、ちょっとしゃがんでくれないか」
「む?」
理由を尋ねるよりも先に、九斗は言われた通りにした。
体勢を変えながら振り向いた冷司が、覗き込むように顔を近付けてくる。
何だ、と問おうと僅かに開きかけた九斗の唇に、冷司の唇がそっと重ねられた。
──……え……?
「……嫌だったか?」
冷司のこちらの反応を伺うような言葉と表情、そして自分の唇に残った柔らかい感触。
──あー……つまり今のは……キス、か。
遅れながらも理解し、その後から大きな感情が追い付いてくると、九斗は顔を真っ赤にしながら真後ろにひっくり返った。




