04 そうだ、本を読もう
図書室に入るなり、冷司は真っ先に貸出カウンターへと向かった。天気の割に生徒の姿は少なく、九斗たちが知っている顔はなかった。
「すいません、新刊の『コンソメ人間』ってあります?」
手元のクリアファイルの中身に目を通していた司書・鍋島が振り向いた。推定四〇代後半の小柄な女性で、気さくな人柄から生徒たちに人気がある。一部の女子生徒は、本人のいない所で〝ナベちゃん〟と呼んでいる。
「あー、あれはさっき貸し出したばかりよ」
「ああ、そうですか。残念」
「同じSFならあれはどう? 去年出たやつだけど『そして輝く丑寅象』。読んだ?」
「もう読みました。面白かったんですけど、主人公の思考にあんまり共感出来なくて」
「あ、わかる。というかあの作者の作品の主人公ってだいたい捻くれてて──……」
冷司と司書の会話は、すぐに終わりそうにはなかった。手持ち無沙汰になった九斗は、ゆっくり歩きながら適当に本棚に目をやった。
──オレもたまには何か読むかなぁ。
九斗には読書の習慣はないし、あまり興味もない。座って活字を目で追うよりは体を動かす方がずっと好きだ。中学時代、冷司と読書好きなもう一人の友人にそう話したら「目で追うだけじゃないだろ……」「ただの文字の羅列にしか見えないのかい……?」などと、どこか憐れんだような口調で反論された。
──オレでも頭使わずに気軽に読めそうな小説は……ああ、それこそ冷司に聞けばいいのか。
貸し出しカウンターの方へ振り向くと、冷司がこちらにやって来るところだった。
「待たせたな」
「おう。何か借りられたか?」
「いや、今日は何も。また今度にするよ。戻ろうか」
「あー、あのさ。何かオススメの小説ってないか?」
「え?」
「ちょっと気が向いた。何か読もうかなって」
冷司は一瞬目を見開き、破顔した。
「や、やっぱり変か? オレが読書なんて」
「変じゃないよ。どんなジャンルがいいんだ?」
「あー……特に考えてねーや。オレにも読めそうなら何でもいいんだが」
「うーん、そうだな……じゃあ……」
言いながら、冷司は貸出カウンターの方へと戻ってゆく。司書にでも聞くのだろうかと思いながら九斗も後に続いたが、冷司の足はカウンター近くの回転式本棚の前で止まった。
「この辺のはどうだ?」
回転式本棚には、何十年も前から何百もの生徒たちに触れられてきたのであろう、古びた文庫本がまばらに収納されている。主に海外の推理小説と、SF小説のシリーズものの邦訳本だ。
「推理ものなら、例えばこの『鏡が全然ひび割れない』とか。昔の作品だから表現はちょっと古臭かったりするけど、なかなか面白いぞ。SFならこの『銀歯ハイキック・ガイド』シリーズとか」
九斗は『銀歯ハイキック・ガイド』の第一巻を引っ張り出し、適当なページを開いて目を通した。自分にとっては難しい日本語と、聞いた事のない恐らくはSF用語の数々に、自然と小さく唸り声が漏れる。
「あー……じゃああっちの方がいいかもな」
次に紹介されたのは、図書室の奥へ進む途中にある木製の本棚の一角だった。ズラリと並ぶ単行本のタイトルのいくつかは、九斗にも聞き覚えがあった。
「この辺のは、だいたいどこの図書室にもある世界の名作コーナーだ。さっきのSFよりは間違いなく読みやすいぞ」
「お、この『ああ無情』って知ってるぞ。重くて悲しい話らしいな。前に母ちゃんが映画で観たって言ってた」
「読んでみるか?」
「ん……いや、ハッピーエンドがいいな。善人の主人公が報われずに死んじまうってのが嫌だ」
「そうか。じゃあ『ロビン・フッドの冒険』もやめときな」
「おう。……ってネタバレじゃねーか!」
冷司は慌てて口元に人差し指を当てた。
「だってお前がそういうの嫌だって言うから」
「む、待てよ……もしやこの『赤毛のアン』とか『トム・ソーヤーの冒険』も、最後に死ぬんじゃ……」
「安心しろ、無事だ」
「こっちの『小公子』と『小公女』ってのは、シリーズものか?」
「別物だけど作者は一緒だ。ほら、その右端の『秘密の花園』と同じ作者。そんでもって死なないからな」
「ふうん……」
何気なく『秘密の花園』に伸ばしかけた九斗の指先と、同じタイミングで伸びてきた冷司の指先がぶつかった。
「あ、悪ぃ」
「ああ、ごめん」
互いの視線が絡まり、無言になる。鍋島がPCのマウスをクリックする小さな音と、図書室の前を通り過ぎる生徒たちの話し声が、妙によく響いて聞こえてくる。
「な、何だよ?」
「いや……何かベタだよな、こういうの」
「お、おう……確かにそうだな」
九斗は本棚に向き直ると、一つ咳払いした。世界の名作たちの背表紙を、少々大袈裟な動きで順番に指差してゆく。
「えー、あー……よし、これだ」
指が止まったのは『ドン・キホーテ』だった。
「確かこれって、ペンギンが主人公のやつだろ」
「人間だよ。それと、最後に死ぬやつだ」
結局九斗は何も借りず、冷司と図書室を後にした。




