第三話 release
中3の夏休み前だろうか。
その日も、僕は屋上へと向かった。先生や他の生徒がいない間に駆け足で屋上への階段を登る。
無事に、誰にもバレなかったことを確認し、ホッと安堵のため息をつく。
ガチャッ
「あ、暑いな……」
7月の猛烈な蒸し暑さに僕は悲鳴をあげる。
「おはよう。水野くん。今日も暑いねー」
「おはよう。桜田さん。いや、この時間帯はこんにちは、かな」
僕はいつものように彼女の横に座り、弁当の包みを開ける。
「ねぇ、期末試験、どうだった?」
「まぁまぁだったかな……」
「そういう割には暗い顔してるじゃん。ほら、スマイル!スマイル!」
「実は、母親に白陵高校を受けろって言われて……」
「白陵高校って神奈川県の中で最も頭のいい高校じゃない、水野くんには悪いけど、今のままじゃ受からないよ。そこ」
彼女らしく、正直な物言いだ。だが、失礼だとも思わない。前回受けた全国模試の偏差値は58。
自分自身でも今の状態で受かるとは到底思えない。
「でも母親に行けって……」
その為に勉強しろって。これは僕に課せられた“義務”だった。
彼女と会うようになって、僕の心は楽になった。それでも、勉強の辛さは変わらない。母親のプレッシャーも、何一つ。
空は今朝から曇り、不快な蒸し暑さが続いているの
「母が言うには、このままじゃ受からない。だから、夏期講習では絶対に白陵高校対策コースを選べって言われたんだ」
「水野くんは、どうしたいの?」
彼女が柄にもなく真剣に話を聞く。
「僕は……僕は、白陵高校に受からないと思う。だから、少しレベルの低い、小北高校を目指したいんだ。でも、母にそれじゃダメだって言われて……」
小北高校レベルの高校じゃ、あなたの中学受験の失敗を取り戻すことはできない。
母の声がまるでさっき聞いたかのように、頭の中で再生される。
「本当に、どうしよう……」
わからなかった。誰が正しいのか。自分がどうするべきか。
自分が白陵高校を目指すのは、白陵高校を目指すのは難しいという、無意識的な己の怠慢かもしれないし、今後の人生を見据えたうえでは、母の言うとおり、白陵高校合格のために全力で勉強するべきなのかもしれない。
だから、
「それは、水野くんの進みたい道に進めばいいんじゃないかな」
何だ、そんなことか、とでも言うように、微笑みを浮かべながら放った、彼女の言葉に強い衝撃を受けた。
「そんな……そんな、安易なこと言われてもだよ。僕だって考えたさ。でも、考えてもわかんなかったんだ。母が正しいのか。僕が正しいのか」
「正しいとか、そんなの関係ないんじゃないかな。ただ、自分の選んだ道を進めばいい。結局、どっちの道にも失敗はあるんだよ。なら、堂々と自分の道を進むべきじゃないかな」
「僕は……僕は!一回自分の思うように道を選んだんだ!その結果、僕は入試に落ちた!」
「水野くんが、凄くお母さんに影響を受けているのもわかるし、水野くんがお母さんを大切にしてるのもわかる。でも、これだけは言わせて。水野くんは水野くん。お母さんは関係ないんだよ」
「わからないだろ!桜田さんは!僕がそんな簡単に母親のことを切り捨てられないって!」
「私はわかるよ、水野くん!」
いきなり、大きな声になった彼女に気押され、僕は彼女に畳み掛けられる。
「私だって両親にあの学校に行けだとか、この問題集をやれだとかたくさん言われた!それに、私だって中学受験に失敗した!でも、私は自分の行きたい道を選んだ。もちろん、両親の反対もあったし、たくさん揉めたよ。親のことを簡単に無視することなんてできないって私はわかる。それでも、自分が後悔しない選択をしてほしいの」
「強いね……桜田さんは。僕はそんなに強く生きれないよ……」
「私はそんなに強くないよ……」
彼女はさっきと打って変わって、暗い顔でうつむく彼女の黒瞳に、深い影がさした気がして、僕は思わず口をつぐんだ。
「私ね、中学受験では、親の言うとおりにしてたの。親に言われて塾に行って、親に言われた学校を受けた。自分じゃ受からないと思ってたけど、親の言うことが正しいはずだって、自分に言い聞かせて」
「……」
「今思えば、逃げ、だったよね。自分で考えることから、自分で苦しむことから逃げてた。親の言う通りにすれば、万が一、失敗しても、責任を親に被せられるから。そして……落ちたの。受験に」
だから、と彼女は続ける。
「私が自分で選んだ道を進もうとするのは、強いからじゃない。前みたいに、人の言うことだけを聞いて失敗したくないから。もう、失敗を人のせいにして、責任から逃げたくないから。だから私は、水野くんに偉そうなことは言えない」
「なら何で……」
「だって、水野くん、お母さんのこと話す時は、いつも辛そうにしているんだから」
「……」
「本当は、水野くんの中では自分の選んだ道を歩みたいってそう思っていると思うの。でも、水野くんは優しいから、お母さんの期待に応えたいからって、頑張ろうともしてる」
「別に僕は優しくなんか……」
「私は水野くんに後悔してほしくない。水野くんが胸を張って、歩いて欲しい」
「……」
「お母さんだって、水野くんが自分で選んだ道を全力で進めば、きっとわかってくれると思う。それに、私は笑顔の水野くんが、その……」
ここで彼女は顔を赤くして、目を僕から逸らす。
「す、好きだから、その……あの、ここで言う好きは別に恋愛感情ってわけではないからね!絶対そうだから!勘違いしないでね!」
「そうだね……うん!ありがとう」
「え?」
自分の決めた道を歩もう。その為に全力で頑張ろう。後悔しないように。
もし、母親の言うとおりにしたら、きっと僕は言い訳をして、責任を母に被せて逃げてしまうだろう。そう、彼女が気づかせてくれた。
それに
彼女が僕の笑顔が好きだと言ってくれた。
なら、僕は彼女の好きな自分の為に笑顔でいられる選択をする。
「僕、自分で選択をして、自分で決めた道を進むよ。色々大変かもしれないけど……後悔するよりずっといい」
「そうだね、うん!」
彼女はいつものように花のような笑顔を僕に見せた。
(あぁ、どうしようもないほど……)
僕は彼女が好きなんだ。
笑顔も、彼女の綺麗な黒髪も、拗ねて頬を膨らませる彼女も、たまに憂いを帯びる横顔も、彼女の綺麗な白くて細長い指も、どうしようもなく好きだ。
気づけば雲は風に流され、天には気持ちの良い青空が広がっていた。
救われた。あの日も今日も。僕はいつも君に救われている。
「あ、あとさっきは好きだとか言ったけど、水野くんから男の子的な魅力は一切感じてないからね!」
この日の昼休みは、顔を真っ赤にしながら叫んだ彼女の一言で、大きく傷ついて終わった。
この日から僕は変わった。
母親の“呪い”から解放された。
今思えば、この呪いは母親だけでなく、自らの手によってもかけられていたと思う。
この日から僕は親のプレッシャーを感じなくなった。
生活のリズムは改善し、体調も良くなった。
クラスのみんなともすぐに溶け込めるようになり、数人の友達もできた。
前から話し相手だった和俊とは、晴れて親友となった。
勿論、母と大いに揉めたが、自分で決めた選択を全力で頑張るとの条件付きで、無事に小北高校の受験を許してもらった。
僕は生活が充実するようになった。初めて、中学校を楽しいと思えるようになった。
でも
「ねぇ、水野くんって学校、楽しい?」
「えっと、昔は全然。でも最近は少し楽しくなってきた。」
「そう、よかったね……」
そう微笑む彼女の瞳に、影がさしていることに、僕は気づくことができなかった。




