第1話 という名のプロローグ
ここは現代日本。都会でも田舎でもないこの港町の片隅。
そこにある埃臭い紙の匂いで満たされた一室には、2人の男女がいた。
「ワトスン君。喉が渇きを訴えている。コーヒーを注ぎたまえ」
「イェッサー。先生」
男は新聞を読みながらカップを女に向け、女は並々とカップを満たした。
「うむ。美味いな。しかし、これはコーヒーではなくほうじ茶だ」
新聞紙から目を離すことなく男は呟いた。
「イェッサー。先生。うちにはコーヒーなんてものはありませんこと」
青い花があしらわれた着物を纏う女は優雅な手つきで茶を口に運ぶ。
「ほうじ茶だってそんな高級な茶葉ではないだろう。むしろといったところではないか」
「高ければいいということではないのですよ。先生。人生人それぞれ。高い低いにこだわらず、好みの物を選べばいいのです」
「はあ……まあその通りだが、たまにはコーヒーの一杯でも飲みたいものだな」
男はため息をついて、それでもなお新聞紙から目を離さなかった。
「先生ならコーヒーの一杯といわず、コーヒー会社丸ごと買えるのではないでしょうか」
女はさも当然であるかのように編み物を縫いを再開しながら言った。
「おいおい。馬鹿なこと言わないでくれ。どこにそんなお金があると」
「株。買ってましたよね」
男は持っていたカップをカタッと置いて新聞紙から目線を外し、着物女を見た。
「前に私に話してましたよね。A社の株を買ったと。これは来るから。俺の勘が告げているからと。昨日ふと調べてみましたが、凄いじゃないですか。細かくは言いませんが、今までの仕事でもらった額より大きいですよね」
男の首筋にひやりと汗が流れる。
「そういえば、近所に『すいーつ』なる店ができたと聞きました。どんな店かは存じ上げないのですが、先生はどう思いますか?」
「お、俺も知らないな。今度調査する必要がありそうだ。お前も来るか?」
「ええ、勿論ですよ。先生。経費って素晴らしいですね。楽しみです」
男は苦い顔を隠すように、机に置いたほうじ茶を一気に飲み干した。
「やはりコーヒーには勝てないな。……おい。今から自販機に行くが何か飲みたいものでもあるか?」
女は目を輝かせて、男の質問に答えた。
「ぶどうジュース。勿論、炭酸抜きのものでお願いしますね」
「……おう。任せとけ」
意外とハイカラな奴だと思いつつも、少女の笑顔を前にしてそれをいうことができる男ではなかった。
萎びた男と着物の女が会話を交わしたのはそれで最後であった。
新しくできた『すいーつ』なるカフェの前、男は缶のコーヒーと果汁数%の炭酸ジュースをもちながら不審者の如く、店内を覗こうとしていた。
「価格帯は普通のカフェより少し高いくらいか。人気のメニューはメロンと白桃のパフェと、巨峰ジェラートが乗った巨峰づくしショートケーキか。きっと楓はこのショートケーキにするだろうな」
男はコーヒー缶を開け、店の近くにあったバス停のベンチで息をつく。
「混んでたな。バス停の近くだからかマダムも多いと」
店の分析をしながら、辺りを見渡す男はさながらカラスの様であった。
ニューオープンしたカフェの調査を終え、帰路に就いた男は帰り道の十字路で不思議な現象にあう。
「あ?この道さっきも通ったよな」
十字路を曲がった先にあるアパートにこの男の住んでいる一室があるのだが、そこにはありふれた黒屋根の一軒家が代わりに建っていた。
男は来た道を戻ってみるも結局この家にたどり着く。
「どうなってんだ。オイ」
試しにインターホンを鳴らすも、なにも反応がない。
途方に暮れた男は、その場で座り込んだ。
「痛んじまうぜ。このままじゃ」
かわいらしい兎のマスコットが印刷された紙袋を膝で抱え、男はそう呟いた。
どうしようもないのでいっそ地べたで寝ようかと思った男だったが、不意に家のドアからカチャリと鍵が開く音がした。
「んー?誰かと思えば、神崎士郎君じゃないか」
空いたドアから、男なのか女なのか判断つけるのが難しい中性的な容姿の子どもが顔をのぞかせた。
「誰だ。アンタ」
男は眉をひそめて、少年?に尋ねる。
「まあまあいいじゃないか。行く当てがないんだろう?うちに寄りなよ。面白いゲームがあるんだ」
少年?はそういうとドアを全開にして、中へと消えていった。
「……俺の勘がいってる。アイツはヤバい」
男は冷や汗を袖で拭いながら、紙袋を手に持ち立ち上がった。
「だが、行く当てがないのは事実だ」
男は疑念を片手に持ち、家の中に入っていった。
「邪魔するぞ」
家に入ると、正面に階段があった。というより玄関を除けば階段以外なかった。
「こんな家初めて見たな。欠陥住宅にもほどがあるだろう。トイレはどうすんだ」
男は階段を上った。上った先には、一つの扉があった。
「押し戸か。珍しいな」
そう呟き、そこそこ重いドアを開けた。
部屋の中に待ち受けていたのは、映画館にあるドデカいスクリーンとそれを眺めてポッポコーンを食べている少年(仮)であった。
「変だ変だとは思っていたが、物理法則まで無視するとはな。どう見ても一戸建ての2階にあっていい空間の広さじゃないだろう」
男は座り心地のよさそうなソファーに座っている少年に向けてそう言った。
「そうだね。ところで、それはボクへの差し入れかい?美味しそうなケーキじゃないか」
少年は男に問いかけた。
「これは俺と弟子のもんだ。残念ながらあげられないな」
そういって男は持っていた紙袋を背に隠した。
「あら、残念。まあいいよ。それよりこっちにおいで。一緒に遊ぼうよ」
少年は手招きしながら、ポンポンとソファーを叩いた。
「じゃあ1回遊んだらここから帰らせてくれるか?」
「えぇー、そんなに帰りたいの?なら、これクリアしたらね」
少年は持っていたコントローラーを男に渡した。
「NEW GAMEってところ押してね。ほら、はやくはやく」
「お、おい。なんか嫌な予感が」
「ポチッとね」
少年は男の親指を無理やり力いっぱい押し込んだ。
瞬間、男の視界はブチンという音が聞こえるくらい急激に黒に染まっていった。
「あ、100年後世界滅ぶから。救ってみなよ。約束は守るけど、僕は人が足掻き苦しんでいるのが好きなんだ。だから、せいぜい頑張って生きてくれよ」
朦朧とする意識の中、ただその声だけが脳に響いた。