僕の初めての霧
矛盾が出ないようにしたい…
トンネルの出口が近くなってきたようだ。
反響していた走行音がだんだんと開放的なものに変わっていく。
と思った矢先、トンネルから僕が乗っている車両が頭を出した。
車窓から見えるのは薄い灰色の景色。
線路脇に雑多に生えている草本は見えるが、その先の住居などの構造物は霧によって全く視界に入らない。
僕はなんだか不思議な感覚に包まれていた。
たった1枚のガラスを隔てた外が必死の世界だということに、軽く身が震える。
体験したことはないが、檻の中に入って猛獣の群れの中に投げ込まれるような、「死」が微かに感じられるような感覚。
思わず呼吸を止めてしまっていたようで、吸った息が肺の中へ大量に入ってくる感覚を覚える。
すると、例のピクニックファミリーの娘さんが興味深そうに外を眺めていた。
君、僕より研究者向いてるよ。
するとピク父がピク娘に霧について話し始めた。
「この霧に触ってはいけないよ。少しでも触ったら、とおくとおくに運ばれて帰って来れなくなってしまうからね」
「はーい、でも、どうして触ったら運ばれちゃうの?」
「えーっと、ね。あぁ、空から天使が降りてきて、連れて行ってしまうんだよ」
「天使なんているのかなぁ」
「天使は目には見えないからね」
ピク父よく頑張った。
でも正直に「実はよく分かってないんだよ」って言ってあげても良かった気がするけれどね。
死の気体が電車を覆う中、そんな歓談に耳を傾けていると、違う方向からまた話が聞こえてきた。
「昔からオカンが『霧に触れてはならねえ』ってうるさく言ってたけどよ、これただの湯気みたいなもんだろ?俺好奇心旺盛だから触ってみたいんだがなぁ」
「冗談でもそういうこと言うのやめとけって、なあ。どこの家庭でもそうやって教えられてるんだから、信憑性は高いとみるべきだぞ」
「ああ分かってるけどよ、ただ、調べてみても動画も何もありゃしないのがなぁ。実際遠くに運ばれるなら動画や写真に写ってたりくらいするもんだと思うんだがね」
「確かにそれはそうだな」
あっ、確かに、と思った。
そう考えると不可解な点はあるな。
やっぱり今日は「霧」について調べてみるか。
僕の研究所は変人(褒め言葉)が多いし、何か知っている人もいるだろう。
その時だった。
「あれ?なんか寒くねぇ?」
「確かに、なんかヒヤッと…」
僕の生存本能が警鐘を鳴らした。
すると突然「ガタンッ」と電車が大きな音をたて、スピードが落ちはじめた。
車両を繋ぐ扉の窓から進行方向を見ると、誰も乗っていない。
「まさか」
そこからの僕の行動は早かったと認識している。
「窓を確認しろ!!!」
と叫びながら、進行方向のその扉の前まで疾走する。
そして僕らが最悪の状況にいることを理解してしまった。
この電車には車両間に1mにも満たない渡しがあり、外界と触れないようにするために、頑丈なシートでトンネルのようにその通路を囲んでいる。
そのトンネルの両側に扉があり、車両間を移動するためには2回扉を開けないといけない仕組みになっている。
僕はガラス越しだがハッキリと、その渡しの足元に小さな穴が空いていたことに気づく。
そして、向こう側の扉が開いていたことにも。
振り返ると、乗客は皆確認し終えたようで、僕のことを見ていた。
緊急事態ではあるが、この場を仕切るような真似をしてしまった以上、最善手を打つ必要がある。
僕はピクニックファミリーに対して短く叫んだ。
「レジャーシート持っていますか!!」
運良く持っていたようで、ピク父が素早く僕にレジャーシートを投げてよこした。
僕はそれを広げると、不格好ではあるが、その扉を覆うようにして押さえつけた。
そして、片手で腰に提げていたカバンから3本の液体の入った試験管を取り出した。
昨日所長に知らない間にカバンに入れられていて今日ちゃんと返そうと持ってきていたのがこんなところで役に立つなんて。
中身は接着剤。
それもウルトラ強力過ぎて、イタズラに使った所長が同僚皆にリンチされるほどの代物である。
それを僕は迷わず、レジャーシートを接着するために使っていく。
幸いレジャーシートは新品だったらしく、どこにも穴は空いていなかった。
なんとか封鎖は出来た。
が、まだ安心するには早すぎた。
「おい、なんだこれ!?」
「体が…たっ、助けっ」
先程話していた2人が宙に浮き始めたのだ。
彼らは確かにあの扉の前に居たから、少し触れてしまっていた可能性は大いにある。
あの大きさの穴から入って来たとしてもたかが知れてるが、そんな少量でも効果を及ぼすなんて。
扉の処置をした僕が浮かなかったという事実はその時全く頭になく、目の前の不可思議な現象をただ見つめるのみであった。
しかしもちろんそのままにするわけもなく。
意味は無いかもしれないが、彼らの手足を引き、なるべく天井に付けないように下方向に引っ張る。
それを見た他の乗客も何人か手伝ってくれたが、一向に上昇が収まる気がしないので、逆に離してみることにした。
「大丈夫ですか?」
「ああ、はい。案外平気です。天井が床になった感じで」
「でも頭を上げようとすると頭に血が上る感覚がします。血は重力受けてるんですかね?」
「不便ですが、とりあえずそのまま霧が晴れるまで待つことは出来そうですか?」
「OKっす」「大丈夫です」
電車は既に止まっていた。
この霧が晴れるまで、実に1日かかったのは誰が想像しただろうか。