前編
ーー表面上の美しさが文字にも反映されていれば良かったのに。
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おはよう。
そんな挨拶を交わしながら校舎内を歩いていく。
頭のてっぺんと足の爪先を引っ張られているような感覚で背筋を伸ばす。
美しさはこうした小さな意識の持ちようでも効果はあらわれるのだ。
唇にほんの少し力を入れて、口角を軽くあげる。
柔らかく笑みを浮かべている状態だ。
表情を明るくしておくと、気持ちも向上していく。
ーーような気がするので心がけるようにしている。
廊下の窓ガラスで自分の姿をチェックするのも忘れてはならない。
髪は跳ねていない。
ニキビもできていない。
表情よし。
血色よし。
そんな風に一つ一つ良いところをこまめにあげていく。
うん。今日のわたしもパーフェクトだ。
「おはよう」
声色にも気を遣い挨拶をする。
うるさすぎず、かといって暗くなりすぎない程度に囁くように声を出す。
ちなみに儚い美少女をイメージしている。
「あ。神谷さん。おはよー」
クラスメイトの柳生刻が返す。
いつもは元気いっぱいの彼だが、何だか様子がおかしい。
落ち込んでいる。…ではないな。
何か絶望的?うん。そんな感じだ。
「何かあったの?」
「神谷さんって不幸の手紙って貰ったことある?」
「不幸の?」
脳内で蓄積されてきた記憶をたどる。
不幸の手紙。
それは『七日以内に八人にこの内容と同じ文章の手紙を送らないと不幸になる』といったようなチェーンメールだ。
日数や人数はその時々でバラバラだった気がする。
流行ったのってずっと昔だった気がするけど?
鼻で笑い…失敬、否定するのは簡単に口にできる。
ここは様子を見つつ、もう少し情報を得るとしよう。
パーフェクト人間たるもの包容力もなければね。
「柳生くん。落ち着いて。不幸の手紙がどうしたの?」
「うん。ほらこれ」
そう言って、手渡されたA4サイズの紙を見て固まった。
え。
……何故、これが柳生刻のもとにあるのだ!
「え、えっと」
何か良い言葉はないだろうか。
こんなときはどんな言葉を…。
ダメだ。頭が真っ白になって何も浮かばない。
「困惑するよね。いきなりこんな不気味なものを見せられたら」
「不気味って!」
「何?」
「…いえ。何でもないよ」
危ない。
素が出かけた。
それにしても、不気味なんて。
そこまで言わなくてもいいんじゃない?と思う。
「朝。教室にきたらおれの机の上に置いてあってさ。これって不幸の手紙だよね?」
いいえ。
答えはわたしの書いた献立のメモです。
ーーとは言えない。
わたし、神谷よりこには一応パーフェクト人間としてのイメージがある。
ありがたいことに両親はわたしを美人に生んでくれた。
美しく儚げで上品。
運動神経抜群。
テスト関係完璧。
品行方正。
そんなわたしの唯一といってもいい欠点が字が汚いことだ。
天は二物を与えずという言葉を痛感している。
一度築き上げてきたイメージを壊したくない。
ハードルが変に上がっている分、字のことがバレたら印象は一気にダウンするのは目に見えている。
たった一つの欠点だ。
たった一つ…。
それが今までの〝わたし〟を簡単に壊してしまうのではないか?
そう思うと怖い。偽らなくちゃ。
とはいえ、不幸の手紙呼ばわりはされたくないな。
「あの!普通のメモとかなんじゃないかな」
さりげなく〝普通〟という言葉を強調して言ってみる。
「こんな恨みが込められたような文章が?」
まだ言うか!
「どうしたんだよ。刻」
「なんかあったの?」
わらわらと人が集まってくる。
やめて欲しい。
わたしとしては自然にメモを取り戻して焼却したい気分なのに。
「これを見てくれよ。不幸の手紙」
わたしの気持ちなど一ミリも知らない柳生刻は、クラスメイトたちに見せる。
誰が書いたものなのかがバレないように祈るばかりだ。
「今どき不幸の手紙ってーーうわっ?!何だよ。この禍々しいのは」
「だろ!すごい邪悪なオーラを感じるよな。おれ昔にも不幸の手紙をもらったことがあってさ。そのときに学んだね。放置しちゃダメだって」
そして柳生刻はいかに自分が不幸な目に遭ったかを話し始めた。
テストで名前を書き忘れて0点になってしまっただの。
掃除中に足を滑らせて階段から落ちてしまっただの。
まあ他にも些細な……etc。
その殆どが偶然が重なっただけのように思える。
わたしは未だに〝不幸の手紙〟で盛り上がるクラスメイトたちから離れた。
なんか朝からすんごい疲れた。
「ーーで。あっという間に不幸の手紙の出来上がりってわけよ」
わたしは昼休みに書道同好会が普段使っている教室にいた。
右手には苺ミルク。左手にはメロンパン。
他にも菓子パンを机の上に広げている。
やけ食いでもしていなくちゃやっていられない。
ここはわたしが学校の中で、素の自分をさらけ出せる場所だ。
鍵はかかっているから手足をダランとさせて怠けていても幻滅する人はいない。
ただいつも八木穂空がいる。
彼とは小学生のころからのつき合いだ。
そしてわたしの字のことも知っている。
「それは災難でしたね」
そう言いながら、急須にお茶っぱをいれている。
多分、今日も緑茶だろう。
ここではいつも緑茶だ。
湯飲みをわたしの前に置いてくれた。
「ここって本当に癒されるー」
「よりこさん。よりこさん」
穂空がチョイチョイと手招きをする。
彼はいつも着物で学校にきている。
なんでも祖父がこの学校の元理事長らしく、大抵のことは許されてしまうのだ。
そんな彼が着物の袖を口元に当てて、ふふ、と上品に笑っている。
怪しい。
思わず身構えた。
何か隠し持っていないか全身を無遠慮に見てしまう。
取り敢えず、大丈夫そう……かな?
「ですから、よりこさんってば」
「あー、はいはい。何?」
「ちょっとお耳を拝借」
内緒話をするような仕草を見せたので、身体を傾けて耳を近づけた。
穂空の顔も近づいてきてーー息を吹きかけられる。
「ひゃあ?!」
「なるほど。よりこさんは耳が弱い、と」
袂から一冊のノートを取り出すとペンで書き始めた。
「あ、あんたねぇ!」
「お茶のお代わりはいかがですか?」
彼ーー穂空の趣味はわたしの弱点を収集することらしい。
一番最初に抗議したときにそう言われた。
これさえなければ、本当にここは天国なのにな。
彼の前髪がはらりと垂れる。
「前から思っていたんだけど、前髪切ったら?邪魔でしょう?」
そういえば、長い間ちゃんと顔を見ていなかったな。
小学生のときはそれなりに整った顔をしていたような気がする。
よぉし!見てやれ!
髪に触れようと手を伸ばす。
「あ!そうだ。お茶菓子もあるんですよ」
身体を反転させて離れていく。
…え。避けられた?
それとも気のせい?
宙に浮いたままの手を意味もなく見つめる。
何だか腑に落ちないまま、膝に手をおろした。
****
「わたしが書道同好会に?!」
「ええ。入りませんか?」
とんでもないことを話し始めたな。
何が悲しくて苦手意識の強い書道をしなくてはならないのか。
「ぼく一人だけの小さな同好会です。よりこさんが入ってくれたら嬉しいです」
「っ」
臆面もなく恥ずかしいことをサラッと言えちゃう男だ。
「むやみやたらにわたしに触ろうとしないなら考える。あと弱点収集もやめてくれるなら」
ーー沈黙。
「それはわたしの条件は飲めないと?」
「ぼくたちにそんな垣根はいらないじゃないですか!」
「ただ単純に嫌なの!それでなくても、字がコンプレックスなのに…」
ーー意識は小学生のころの忌まわしい出来事に遡る。
当時から字が汚いのは自覚していたが、書くことには何の抵抗もなかった。
あのことがあるまでは。
いつもの習字の授業で、わたしは先生に頭ごなしに叱られた。
「どうして神谷さんはいつも真面目に書かないの!みんなを見てみなさい!きちんと書いているでしょう?」
「先生!わたしふざけてなんかっ!」
「言いわけは聞きたくありません!」
ちゃんと書いているのに。
わたしは半紙の上でうねる文字を見た。
やがてそれはぼやけていく。
それから友達の間でもわたしは字のことでからかわれることが増えていった。
「神谷ぁ!この汚い字。おまえのだろう?」
「違っ」
男子の一人がわたしが書いたものだろうと紙を見せてきた。
それは雨で汚れて読めなくなった漫画の切れ端だった。
「汚い字といえば神谷だもんな!」
教室内でどっと笑いが起こる。
もう学校になんか行きたくない。
先生があのときあんなことをみんなの前で言わなければ……。
悔しかった。
泣くのは先生の言葉を認める気がして嫌だった。
うつむく。
「本当だ。読めないね」
穂空の声だ。
「だろう?おまえもそう思うよな!」
「うん。それは読めない。でも神谷さんのは違う。彼女のは読めるし味がある」
「は?」
涙はどこかへ引っ込んだ。
かわりにわたしも穂空を見た。
何を言っているのだろう?
「心を込めた字には命が宿るんだよ」
「八木。おまえ神谷のことが好きなんだろう?」
「そうか!だからそうやって庇っているんだ!」
「エロ八木ぃ」
いつの間にか、からかいの対象はわたしから穂空にかわっていた。
彼は特に表情をかえることなく涼しげにしている。
だからだろう。
からかっていた男子たちもつまらなさそうだ。
「ところでそれ」
「何だよ!」
「道端で拾ったやつなんじゃないの?」
「だったら何だよ!」
「やっぱり。それエロ本の切れ端だよ。ぼくがエロ八木ならば、きみたちも同類ってことだよね。わざわざ拾ってきちゃうぐらいなんだからさ」
男子たちはとうとう黙ってしまった。
女子たちの失笑が聞こえる。
その日を境にわたしは穂空とよく話すようになった。
それをからかう人も一部にはいたが、二人でいるのが楽しくてあまり気にならなかった。
変に気を遣わなくていいのが楽だったし。
やがて、それが当たり前の光景になったころには誰も気にしなくなっていた。
字のことも誰も言わなくなっていった。
ーー意識が今に戻るとわたしは穂空を見た。
彼のいる書道同好会にだったら入るのも悪くないかもしれないな。
だってどんな字を書いたって笑ったりなんかしないんだから。
書道同好会に入るにしろ、先ずは仮入部させてもらうことにした。
その旨を話すと抱きついてこようとしたので、張り倒しておく。
今は床に転がって拗ねている。
放置だ。放置。
「よりこさん。先ずは好きに書いてみてください」
「うん。ねえ、道具はどうすればいい?」
「そこから勝手にどうぞ」
そう言って棚を指差した。
わたしはそこから書道で扱う道具を出していく。
机の上に半紙を置き、押さえつけるために文鎮を乗せた。
硯に墨を垂らすと筆を持つ。
さて。何を書こう?『未来』とか?
ふと背後に気配を感じる。
視線だけを向けると背後にピッタリとくっつくように穂空が立っていた。
いつの間に復活していたんだ?!
「緊張感があっていいでしょう?」
「ふざけていないでよ」
「よりこさんは何の字を書くのしょう」
「近い!近いって!」
…あれ?自然と姿勢が良くなっている自分に気がつく。
もしかして?穂空を見る。
彼はにこやかに笑っているだけだった。
****
「よりこさん。左手はきちんと机の上に置いてください」
「こう?」
「はい」
「じゃ、じゃあ書くよ」
わたしは鼻息荒く、『未来』の一画目を書こうとした。
「よりこさん」
「今度は何……っ?!」
穂空が背後からわたしの手に触れている。
彼の人差し指がすうっとわたしの人差し指と中指へと移動して、擦る。
「指に余計な力が入りすぎています。このまま書いても窮屈な字になってしまいますよ」
「何故、触れた?!口で言えばいいじゃん!」
「え。ダメでしたか?」
「なんかエッチぃの!」
「触れただけなのにですか?!ひどいです!」
「セクハラって言うんだよ」
ふぅ、と一息つく。
また半紙を見つめ、今度は気持ち軽く筆を持った。
おかしなやり取りをしたせいか、力まずに書けている。
「ーー書けたよ」
「お疲れさまです。どうです?久しぶりの書道は?楽しめましたか?」
「どうだろう。わからない」
息も絶え絶えな様子の『未来』という字を見て、そう思う。
未来というよりも終末といった感じだ。
今にもこの世に滅亡を与えそうな字をしている。
「次は手首だけで書くのではなく、肩も動かして書いてみてください」
「肩?」
「のびのびと書けますよ」
「わかった。教えてくれてありがとうね」
「いいえ。緑茶でも飲みますか?」
「うん」
こんな穏やかな気持ちで取り組めるならば書道も悪くないな。
****
教室に戻るとわたしの机の上に不幸の手紙が置いてあった。
わたしが書いた献立のメモではない。
正真正銘、不幸の手紙だ。
犯人なんて探さなくてもわかる。
彼の席へと向かった。
「柳生くん。これはどういうこと?」
「ごめん。神谷さん!おれ、どうしても不幸にはなりたくなかったんだ!」
それって、わたしは不幸になっても構わないって思っている?
感情のままにぶつかるのは簡単だ。
だけどここではパーフェクト人間を目指している。
わめき散らすのは違うもんね。
グッと我慢をしてみせなくては。
「わたしだって怖いんだよ?」
実際はそうでもないんだけど、可愛さをアピールするのも忘れてはいけない。
「神谷さん……そうだよね。もしものときはおれが守るから!」
あ。こいつダメだ。
先ずはごめんなさいでしょうが。
守る以前に、不幸の手紙を渡してくるな!
と心の中で毒づいてみる。
「…ありがとう」
「うん!」
これで柳生刻には悪気がないんだもんなぁ。
****
書道同好会の教室に休憩するためだけに行くことはなくなった。
言葉通りに書道もやるようになっていた。
今日は穂空が見本を見せてくれるというので、わたしは隣に座っている。
硯に少量の水を落とすと深呼吸をしている。
「心を落ち着かせてからゆっくり磨り始めるといいんですよ。そうすることで優しい墨ができます」
「へー。そういうものなんだ」
水と墨が混ざり合っていくのを見つめていると、不思議と心が穏やかになっていく。
平和な時間だなー。
「墨の香りって結構好きかも」
「ぼくもです」
水を落として、墨を磨る。
それを何回か繰り返した。
ほどよい色合いに満足したのか穂空はうなずいている。
「今日はこの墨でよりこさんも一緒に書いてみますか?」
「今は穂空が書いた字を見てみたい」
「わかりました。じゃあ、弱点を一つ教えてくれますか?」
「は?」
「たまには正攻法で収集してみようかと思いまして」
「嫌に決まっているでしょうが!」
つい冷たい反応になる。
柳生刻に見せた態度とは百八十度違う。
でもわたしは安心して素を見せられる。
穂空はこの程度なら幻滅したりしない。
「では、これならどうですか?一画書くごとに質問をするんです。それに答えてもらうっていう形式です」
「黙秘権は?」
「そうですね。答えたくない場合は答えたくないと言ってくれれば」
「全部、そう答えちゃおっかなー」
「よりこさんって時々、意地悪ですよね」
苦笑しながら穂空が筆を持った。
「何ていう字を書くの?」
「『告白』です。画数もそれなりにあります。質問もたくさんできますね」
「そ…そう」
何故か『告白』という言葉を聞いただけでドキッとしてしまった。
深い意味なんてないのにね。
「では書きます」
その瞬間、空気がかわった。
ーーような気がする。
澄んでいるというか何というか。
着物効果もあるのかもしれないけど。
質問なんかしないで書くことだけに集中して、字を見せて欲しいとさえ思った。