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赤色女人  作者: 生駒匡
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赤色女人4


 夕日が沈み切って太陽の代わりに焚火が飴色の灯りで照らすようになると、自然と青年の家族は焚火の周りに集まった。夕食後の気怠いような弛緩した空気が満ち、父親が焚火の灯りで矢の設え(しつらえ)を始めるとそれぞれがゆったりと好きなことをし始めた。母親は洗い物を持って外へ出た。次男の弟と長女の妹は二人で遊んでいる。青年は村長からもらった染料を試すことにした。

 青年は染料を指で突いてみた。染料は陶芸に使う粘土ほどの固さで指を押し入れると簡単に埋まった。深さがあった。かなりの量を村長はくれたようだ。そのまま掬ってみと塊が指に乗った。染料の塊はまとまって垂れてこない。乾いているせいだけじゃなく何か混ざっているのかもしれないと青年は思い当たり匂いを嗅いでみた。若干の獣の匂いがする。膠のようだ。そこで青年は小皿に指の上の染料を移して焚火の近くに置いた。青年は水の入った皿と灯り用の油皿を自分の傍に用意して染料が暖まるのを待った。

 ゆれる火を眺めながら青年は思いをめぐらす。青年が持っている染料はただの水溶きだ。贅を惜しまず膠を大量に使った染料に今更祝いで使う高級品だと感じる。村長の説明を受けたとき青年は描きたいものに気を取られて考えもしなかったが、お祠様の奉りは村にとって大事なのかもしれない。隣の親子の張り切り具合と結婚の優遇はその証拠なのか。青年は知らされずに育ってきたからその程度の行事なのかもしれない。しかし、父親は適当なところがあるから青年の育ち方から信用はできなかった。

 染料が溶けて小皿に薄い池を作った。水面に焚火の光が映って踊っている。青年は染料の小皿を持って指でかき混ぜてみた。指の跡がゆっくりと埋まっていくくらいの固さが残っている。染料に少しずつ水を注いで混ぜた。程よくなった染料を左手の甲に塗ってみた。伸びがいい。指の通った箇所に滲みも掠れもなく碧い川ができた。そこだけ屋根を無視して夜空を映しているようだ。

 足音を立てて弟が飛びついてきた。

「お兄、なにそれ。見せて」

 妹は青年の左手を覗き込んで目を輝かせた。

「うわあ、きれい」

「村長がくれた特別な染料だよ」

 弟も妹と同じところを覗き込んだ。そして青年に左腕を突き出した。

「俺にもやって!」

「わたしも!」

 妹も揃って腕を突き出した。

「座りな。二人ともやってやるよ」

 兄弟同様に青年も染料の美しさに興が乗っていた。

 まず青年は焚火から火をもらって油皿の芯に灯りを付けた。その火を小皿の染料のそばに置いて染料が冷めないようにした。弟の腕をとって青年は聞いた。

「何がいい?」

「熊!」

 熊は甲に収まらない。弟の腕に四つ足で歩く口を開けた熊を描こうと決めた。青年は指先だけで細い線を何本も引いて、いつしか村長宅のお守りで見た線画の動物と同じように、直線だけで組まれた熊を描いた。夜空色の角ばった輪郭と直線の渦を巻く毛皮でできた熊はでかい胴と太い手足に暴力と神秘を備えて歩いていた。最後に熊の周りに草の絵を描いて肘のあたりまで豪勢に飾り立てた。

 兄弟たちは完成する前から騒ぎたそうにしていた。妹は飛び跳ねていた。弟は青年が腕を掴んで動かせさせなかった。

「ほれ。終わり」

「お兄、ありがとう!」

「次わたし」

 妹は「兎がいい!」と言った。青年も心得て今度は妹のまだ細い腕を一周使って描いてみようと決めた。

 母親が戸口から青年を手伝いに呼んだ。そのとき青年は指を染料に浸したばかりで、まだ妹には一筆も書いていなかった。しかし母の威厳には弟達も逆らわない。青年が立ち上がると妹は唇をひん曲げて青年を見上げた。

「戻ったら描いてやるよ」

 青年は母が待つ外の暗がりへ戸口から出た。

 外は夜空の高いところから半月が光を落とし、青年の纏う焚火の暖気を剥がしてしまった。遠くに月に照らされた雲が見える。

 母親は家に併設された作業場で待っていた。洗い物が全て重ねて台に置いてある。青年が手伝う必要なさそうだった。しかし、母親は青年が来るのを待った。

 青年は作業場に歩いていく。今日の月明りはやけに明るく母親の表情が良く見えた。それだけで青年は母親の意図は理解したが、

「なにすればいい?」

 と聞くのだった。母親は青年の質問を無視して話し出した。

「お父さんから聞きました。お祠様の祭りを開くそうですね。最後の祭りはお母さんが生まれる前ですけど話は聞いたことがあります。村にとって大事なことだとも理解しています。けれど、あなたが山に行くことは許しません」

 冷静な無表情を頑固に張り付けた顔は母親が昔から青年を叱るときの姿だった。静かに非を語りつつも妥協を許さない叱り方は母親の性格の表れだ。凪いでいる水面下は激情が満ちている。

 はるか遠くまだ見ぬ山は羨望として青年の中で熱く渦巻いている。山の風景を持ち帰って、そして少女に期待に応えるという妄執はもはや使命となり、青年の体が決意を固めていた。

 木々の葉が擦れて不気味に音を立てる。二人は怯まない。青年と母親は暗闇の中で対峙した。

「嫌だ。俺は山へ行く」

「あなたに何かあったら弟と妹はどうするの? 弟はまだ弓も撃てないのですよ」

「お父がいる。お父の狩りは上手い。それにお父も賛成してくれた」

「お父さんは変なところがあるから全部信じちゃだめよ」

「けど頼りにならない大人じゃないだろう」

 母親は言葉に詰まった。方向を変えてきた。

「あなた以外に村長に呼ばれた子がいると聞いています。誰です?」

「カイだよ」

「そう。あの子はお兄さんが一人いたわね。それに体も大きくなってたはずね。やる気に満ちた若者がもう一人いるなら、そちらに任せればいいことです」

「関係ない。山を視に俺は行く」

 しかし母親は全く譲る気配を出さなかった。

「私は許しません」

 青年も譲る気がない。青年は後ろに向き返りつつ「俺が行きたいんだ」だと言い残した。

 家に戻ると父親はまだ矢の設えをいじくっていた。もう矢の束が積み上がっている。弟と妹は青年が座っていた場所で重なるように眠っていた。二人には布がかけてあった。青年は横目で父親を見た。父親は端材を焚火に投げ入れて矢の束を抱えて持ってしまいに立った。

 青年は毛布の中から妹の腕を探し取り出して、さっきの続きを描き始めた。




 その夜青年は眠らなかった。焚火が消えて暗がりに沈んだ家の隅で、油皿の灯りだけを頼りに、無地の大皿に一心不乱に絵を描き続けた。両親は憑りつかれたような青年の姿を見つめただけで何も声をかけずに眠った。両親は知っていた。我が息子は憑りつかれたのではなく、絵に憑りついたのであると。息子深みに嵌ったとき、言葉は届いても引き上げることはできないと。

 月すらも青年を見捨てて山の下へ隠れてしまった。夜はさらに深くなっていく。青年は二枚目の皿に取り掛かった。

 空が白み始めたころ起床した父親は縄で重ね束ねた三枚の大皿を担ぐ息子と出会った。眠気と空腹で表情の硬くなった息子は父親に言った。

「出かけてくる」

「帰りは?」

「昼過ぎ」

 干し肉を摘まんで歩いていく青年を父親は見送った。


 母親が起きて一番にしたことは長男である青年の行き先を確認しなかった夫に怒ることだった。しかし、父親は「昼過ぎに帰ってくるとさ。まあ、大丈夫だろう」と妻の小言を受け流しいつも通りに畑に出ていってしまった。

 母親も父親同様に青年は無事に帰ってくると感じているけれど子を守ってきた親の義務感から心配せずにはいられない。母親は落ち着かぬ朝を過ごした。

 昼食の片付けをしていると青年が家に入ってきた。

 母親が口を開く前に息子が小さな亜麻袋を摘まんで母親に差し出した。 

「俺に何かあったらこれで頼む」

 母親は手のひらで受け取った袋を慌てて開いた。小さな輝く粒が二つ転がっていた。一粒が母親の爪くらいの直径がある。

「絵を売ってきた。俺は山を見に行く」

 袋の中には確かに黄金色の金属の粒が入っている。金は豪商だけが持っているようなもので、村長も持っていないだろう。今この家は村一番の金持ちになった。しかし、たかが絵と金を交換するものか。

 母親は気付いた。母親は息子の絵を三年は見ていない。

 最後に母親が見た息子の絵は草を食む(はむ)鹿を描いたものだった。大人でも感心する上手さだった。が、せいぜい感心するまでで、金と交換してしまうほどに人を魅入らせる作ではなかった。知らぬ間に息子の描くものは魔の領域に入ったのかと母親は慄いた。昨夜の青年は実は何かに憑りつかれていたと信じたくなってきた。

 青年は母親が中身を確認したと見届けると黙って寝床に入り、すぐさま寝息を立て始めた。 母親は黙って青年の寝息で膨らむ背中を眺める事しかできなかった。叩き起こして問い詰める気力は湧いてこない。寝ている青年から感じる喪失感が母親にとって最初の子離れだった。

 親であるのに何が息子をここまで成長させたのか分からない。ただの絵が好きで手伝いもよくする子供が常人の域をでてしまうほど抱き続けた妄執はいったいなんだろうか。息子が到達した場所は親の知見を越えてしまった。

 

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