決意
地方都市に温泉というのは珍しいと思ったが、この辺の都市では当たり前のようにあるらしい。むしろ普通に井戸を掘っても出てきてしまうため、飲み水を確保するよりも安いようだ。
というわけでこの辺は温泉宿、それに温泉を利用した温室栽培などが盛んだった。
「冬に美味しいお野菜が食べられるのはこの街のおかげなんですね」
とは美味しそうに温泉卵を食べているシスレイア姫のものだ。
温泉施設の売店で買ったものだが、彼女はちゅるん、と卵を食べると、
「わたくし、温泉は初めてです」
と言った。
「なるほど、そうか、へえ」
と、やくたいもない台詞しか漏れ出てこないのは、クロエに渡されたチケットに家族風呂と書かれていたからだ。
「……あのメイドめ」
と思わなくもなかったが、この温泉宿には混浴と家族風呂しかないことを従業員の口から聞く。つまりここで家族風呂を諦めるとシスレイアは混浴に行くことになる。
一国のお姫様、それもこのように美しい少女を混浴に入れれば、きっと騒動になるだろう。俺の精神衛生上も良くない。姫様の裸身を他人に見せたくなかった俺は、売店で水着を買うとそれを姫様に着るようにうながす。
きょとんとする姫様。
「お風呂で水着を着るのですか?」
「一般大衆の常識です」
そう言い切って信じ込ませる。世情に疎い姫様は一発で信じると水着を着用する。
そのままふたりで家族風呂に入る。
「――かぽーん」
となんともいえない音が木霊する。
「…………」
「…………」
互いに無言であったが、無言の種類が違う。俺は羞恥の沈黙、姫様は安楽の沈黙だった。つまり姫様は温泉を楽しんでおられた。
善きかな、善きかな、と思う――わけもなく、目のやり場に困っていると姫様は言った。
「……もっと近くに来てくれませんか?」
「…………」
どきりとしてしまうが、それが性的な誘いでないことはすぐに分かった。姫様の表情が真剣だったのだ。
俺は真面目な表情で彼女の話を聞く。
「ありがとうございます。レオン様。実はクロエのことなのですが」
「クロエか……。言いたいことは分かる。兄のことか」
「そうです。森で触れていたクロエの兄上のことです」
「君はクロエの兄について知っていたのか?」
「はい。軽くですが。時折言っていました。兄上はとても優しくて強い人『だった』と」
「過去形か」
「はい。現在、なにをしているか、尋ねても答えてくれることはなかったです」
「ドオル族の戦士として不名誉烙印を押されて追放されたんだもんな。彼女はその不名誉を雪ぐために戦士になったというし、きっと色々な感情があるのだろう」
「はい。しかし、その感情が今にも爆発しそうです。彼女が折れてしまいそうな気がするのです」
「普段と変わらない気がするが」
「これは長年、一緒に暮らしたわたくしだから分かる感覚なのです」
「なるほどな。おそらく、いや、確実にそうなんだろうな」
「レオン様、なんとか彼女を救って貰えませんか?」
「……それは構わない。いや、俺もクロエを救いたい」
姫様は、ぱあっと表情を輝かせるが、俺は即答は避ける。そして彼女に告げる。
「助けるが、その代わりお願いがある。姫様はこのままこのお湯を出て、売店に行ってコーヒー牛乳を飲んできてくれないか?」
「……コーヒー牛乳?」
「そうだ。王宮では飲まない飲み物だな。しかし、風呂上がりには最強の飲料だ」
「レオン様がおっしゃられるのならばそうしますが、一緒に飲みに来ませんか?」
「俺は長風呂でね。もうちょっと入りたい」
ならばわたくしもというシスレイアを説得すると、そのまま彼女を売店に向かわせる。
俺は水着越しの姫様のお尻を眺めながら、彼女が家族風呂から消えるのを待つと、窓の外にいる人物に声を掛けた。
「……コクイ、そこにいるんだろう」
そう小声で言うと、彼はいつの間にか浴場に入っていた。
そこで一緒に風呂に入ればシュールであるが、彼は湯船の外から声を発する。
「……よくぞ気が付いた」
「まあ、姫様を視姦するものに注意を払っていたからな」
「なるほど、心強い護衛だな」
「おかげでお前の存在に気が付けたよ。さて、お前の正体を聞きたいところだが、教えてくれるかね? 自主的に」
軽く言うと、彼はうなずく。
「もとより隠すつもりはなかった」
そう言うと仮面を取り、俺に顔を見せる。
仮面の下にあったのは美麗な顔だった。体付きがごつかったので、巌のような男を相応していたが、なかなかに美青年だった。
「男前だな……」
と言い掛けた言葉が途中で止まったのには理由がある。
どこかで見たような顔だと思ったのだ。
記憶をたどるが、見覚えはない。過去の知人縁者ではない。というか、最近会った人物である。しかも直近、つい数刻前――
と記憶を整理していると、クロエの顔が浮かんだ。
「あ……」
と言うと男はにやりと笑う。
「正解だ、軍師殿。俺はクロエの兄だ。名をボークスという」
彼は黒衣のフードを取る。そこには鬼の角があった。
「お前はクロエの兄か。不名誉烙印を押された」
「その通りだ」
「なぜ、今、ここに現れた。それになぜ、クロエを置いて森を出たのだ」
「それは長くなるが聞いてくれるか」
「もちろんだ。つうか、聞かせろ」
俺がそう言うとクロエの兄ボークスは語り始めた。
クロエの兄ボークスは優しい性格のドオル族だったらしいが、その強さはなかなかのもので、一族や部族の期待を背負っていたらしい。やがては指導者となり、ルルルッカを嫁にし、族長に、というほどの声もあったらしいが、その未来は絶たれた。
理由はドオル族の戦士の儀のおり、その儀式を放棄し、逃げ出したからだ。ドオル族にとって戦士の儀を逃げ出すのは最上級の禁忌なのである。
「なぜ逃げ出したんだ? 蒼き牝鹿を狩る儀式だと聞いたが」
ボークスは包み隠すことなく、淡々と教えてくれる。
「儀式の前日、妹のクロエが高熱を出した。流行病だ。俺はそんな中、儀式に参加した。戦士になるためではない。白き牡鹿の肝を得るためだ」
「白き牡鹿の肝……」
「白き牡鹿の肝は流行病の特効薬だった。強烈な解熱剤だったのだ。だから俺は蒼き牝鹿を狩らず、白き牡鹿を狩ったというわけだ」
「クロエを救うための行為だったのか」
「ああ」
「なぜ、そのことをクロエに言わない?」
「いえば悲しむだろう。自分のために不名誉烙印を背負ったと責任を感じてしまうだろう。だから妹にはなにも言わなかった。両親にもそう頼んだ。このことを知っているのは、俺と両親とお前だけだ」
「……そのものいいはそれ以上、このことを知っているものを増やすな、ということか」
「ああ、そうだ。このことはお前の心の内に伏せてくれ。クロエには俺が死んだと伝えてくれ。これ以上、俺のことで気を揉むなと伝えてくれ」
「…………」
それはできない、とは言えなかった。なぜならばこの男は俺を信頼してこの秘密を打ち明けてくれたのが明白だったからだ。彼の信頼を裏切ることは俺にはできそうにない。それに彼は妹のためにこの秘密を墓に持っていこうとしているのは明白だった。
今からこのことをクロエに伝えても、彼女が浄化されることはない。むしろ、余計に思い悩むような気がしたのだ。
そんな結論に達すると、クロエの兄は言う。
「黙っていてくれるようだな」
心を読んだかのように言うと、彼はにこりと笑う。
「お前の義侠心の代償を支払う。これからおまえたちは巨人を倒しに行くそうだが、俺も同行しよう」
にやりと笑うとボークスは風のような速度で浴室から消えた。
俺はそのまま浴室を出ると、身体を拭き、バスローブをまとう。そのまま売店の前まで行くと、弐杯目のコーヒー牛乳を飲んでいるお姫様に話しかけた。
「イチゴ牛乳も美味いぞ」
「そんなに飲めません」
はにかむ少女。
その笑顔を見ているとすべてが浄化されるような気がした。
俺は『とある』決意をすると、戦場へ向かう決意を新たにする。




