ふたりの聖女
スラム街の最深部、そこにはうらびれた教会があった。
煤で真っ黒に汚れており、割れた窓がテープで補強されているような建物だった。
教会の前には簡易的な竈が設置されており、そこには大鍋があった。
「あれは?」
と尋ねると、シスレイアが答えてくれる。
「あれは炊き出しですね。スラムの聖女様が毎日のように行なっています」
「慈悲深いな。予算は姫様が出しているのか?」
「まさか」
首を振るシスレイア。
「あの炊き出しがすごいのは貧者の寄付によってまかなわれているところです」
「貧者の寄付……」
「そうです。あの炊き出しはスラムの聖女様が自分の食事を他者に与えることから始まりました。とあるスラムの住人が娘が病気で困っていると食べ物を求めてやってきたのですが、食べるものがなかった聖女様は自分の分の食事を渡したのです。――1週間も」
「1週間もなにも食べなかったのか、病気になるぞ」
「ですね。事実、聖女様は病気になってしまいました。枯れ木のように痩せ細りました。食事を分け与えられたものはそれを見て激しく後悔しました。なぜならば彼は本当は食事になど困っていなかったのです。スラム街でもそれなりに裕福な家のものだったのです」
「…………」
「しかし、聖女様はそのことを知ってもこう仰るだけでした。『病気の娘さんがいなくて本当に良かった』と。そう、彼女は嘘をついた青年を批難することなく、不幸な娘さんが存在しないことを心の底から喜んだのです」
「……まさに聖女だな。いや、神そのものなんじゃないか」
俺には真似できないな、そう口にした。
「当然です。そのようなこと誰にでも真似できるものではありません。しかし、真似したいとは思えるはず。だからわたくしは彼女を師と仰いでいるのです」
シスレイアは、こくり、炊き出しを見ながらうなずく。
「それはこのスラムの人々も同じ。皆、明日の食事にも事欠いているのに、進んで寄付をします。自分が一本、人参を食べるのを我慢し、隣人に渡します。そうやって集まった食べ物で食事を作るとあら不思議、皆に食事が行き渡るのです」
「大量に作れば、材料の無駄な部分がなくなるからな」
「正解です。さらに一気に調理することで燃料代も浮かせることができます」
「それがこの炊き出しの秘訣か」
「そうです。わたくしも定期的に市場で安く仕入れた食材を持ってきます。炊き出しの手伝いもします」
「これが君が見せたかった『光景』か」
そう尋ねると彼女はうなずく。
「その通りです。こことは正反対の光景、わたくしの館のパーティーを見せたのもそのためです」
「たしかに対照的だな。天国と地獄だ」
「一見そうかもしれませんが、わたくしにはここが『天国』に見えます。あのパーティーにいたのは他人を思いやる気持ちがない人ばかり、しかしここは逆です。貧しいなかでも他人を思いやり、慈しんでいます」
「たしかにその通りだ」
「わたくしはこの光景を王都全体に、いえ、エルニア王国全体に、できれば世界中に広げたいと思っています」
「それは不可能だ」
「ですね。わたくしもそう思っていました。――あなたと出会う前ならば、ですが」
「…………」
沈黙する。自分がそのように大それた人間ではないと思っていたからだ。
だが、シスレイア姫は違うようだ。俺がこの世界を救う人物だと思っているようだ。
「あなたの知識、智恵、勇気は必ずこの世界を救います。苦しむ人々の光明となるはず」
「無理だな」
「なぜですか?」
「俺は亡命貴族の息子だ。どのように頑張ってもこの国、ひとつ変えられない。亡命者が将軍になったり、大臣になった事例は、数十年遡るだろう」
「ならば数十年前に例があるのではないですか」
「前向きな姫様だ」
「亡命者の子というのは別にして、俺は天性の怠け者だ」
「怠け者大いに結構です。効率的に世直ししていただけそうです」
「図書館の司書が好きなんだ。軍師になったら本は読めない」
「当面は宮廷魔術師 兼 図書館の司書 兼 軍師で。もしもわたくしが女王になったら、レオン様専用の図書館を作って差し上げます」
「ああ言えばこう言うね、君は」
「性分です」
「ならばぶっちゃけるが、俺に軍師になるメリットはない。俺は今の状況に満足しているからだ」
俺は彼女を諦めさせるため、露悪的な表情を作り、続ける。
彼女に嫌われようと、その豊満な胸を指さし言う。
「それとも君が俺に『対価』をくれるなら話は別だが」
その下卑た提案に、王女はわずかばかりも怯むことはなかった。
――数瞬、深刻な顔をすると、俺の手を引く。
教会の関係者に断りを入れると、教会の中に入る。そこの告解室に入ると、鍵を閉める。
そしてなにも言わずにするすると服を脱ぎ始めた。
数秒で全裸となるシスレイア。
あまりにも現実離れした光景に俺は目を奪われる。
シスレイアの美しい肢体にも。
俺は彼女の身体から目を背けながら言う。
「……服を着ろ、姫様」
「なぜですか? わたくしがほしいのでありませんか?」
「……あれは冗談だ」
「冗談でも戯れでもいいです。その代わりこっちを向いてください」
「それは無理だ」
そう言うとシスレイアは強引に俺の顔を掴み、裸身を見せる。
それは彼女が淫らな女だからではない。その逆だったからだ。
彼女は俺を信頼させるためにその裸身を見せているのだ。
見ればそこには古傷のようなものがあった。
なにかで斬られたような痕があった。
「……これは?」
「これは幼き頃、暗殺者に襲われたときの傷です。母親とともに王都の下町に住んでいたとき、暗殺者に襲われたのです」
「君は王宮生まれじゃないのか」
こくりとうなずく王女。
「わたくしは父王がとある端女に産ませた子です。王妃の嫉妬から守るため、下町に住まわせていました。しかし、わたくしの存在を嗅ぎつけた王妃が暗殺者を寄越したのです」
「…………」
「そのとき、母は凶刃に倒れました。わたくしは怪我だけで済みましたが。以来、わたくしはこの傷を誇りに生きてきました。母親に命懸けで守ってもらった証として大切にしてきました」
これを見せる異性は初めてです、と言うと彼女は目をつむった。
「……疵物ですが、この身体を好きにしてください。ここだけでなく、いつでも、どのようなときでもその求めに応じます」
その決意は固いと見える。
子鹿のように震えているが、たしかな決意がその内側から漏れ出ていた。
彼女はどのような辱めも受けるだろう。
俺を手に入れるためならば、どのような試練にも打ち勝つはずだった。
(――これは俺の負けかな)
そう思った俺は、自分が羽織っていた外套を彼女に掛ける。
そしてこう言った。
「――いいだろう。今日から俺は君のものだ」
ただし、と続ける。
「俺は表だってなんかやるようなタイプじゃないんだ。裏から、いや、『影』からこそこそと操ることになるが、文句はないか?」
その言葉に、子鹿のように震えていた姫様は、元気よくうなずいた。
花のような笑顔を俺に見せてくれた。
「はい、今日からわたくしを陰日向なく、お導きください」
と言った。