神と呼ばれた男
あれは平成最後の年の事だった。
神と呼ばれた男がいた。
それは新興宗教の神だとかそういうものではない。彼は何処にでもいる大学生で、他と違う点を挙げるならば、学生が集まったバンドのベーシストだった。
彼の作詞曲のセンスは一目置かれ、神山という名字から取ったのか、溢れんばかりの才能から取ったのか、ファンの間では〈神〉と呼ばれていた。
***
「カミサマ! どうか、どうか、この可哀想な俺をお助けください!」
いつもの練習場に足を踏み入れた私が最初に目にしたのは、額を地に付けて土下座をする兄の姿だった。
「ひろにい何してんの?」
自分の口から予想よりも低い声が零れた。
「あ、りっちゃん。補講終わったの?」
そう話しかけてくれたのは実伽だった。
「うん、先生が早めに終わらせてくれて。それよりも――」
「サクの事?」
「うん、あれ何なの?」
「サクの奴、またやらかしたの」
実伽が話すにはこうだ。
少し前、奈乃香がエゴサーチでRed Stringsの桜庭浩――今土下座をしている、私のバカ兄の事だ――の彼女を名乗る女性の投稿を発見した。
Red Stringsはギター&ヴォーカルの浩、ギターの実伽、ベースの智昭、ドラムの奈乃香をメンバーとしたバンドで、地元のインディーズバンドThe Awkward guysと対バンをしていてそれなりに知名度がある。そんなバンドの花形であるヴォーカルに彼女。十分すぎるスキャンダルだ。本当ならば。
「まあ、デマでしょ。いるわよね、こういう勘違い女。ライブの熱に浮かされる気持ちは解るけど。セトリスを私のために変えてくれたなんて、無理じゃない。演出諸々は智昭君の仕事だもの」
そう切り捨てる奈乃香に、話題に上がった智昭が口を挟む。
「なのちゃん、それっていつの公演?」
「んー、先週の路上ライブ」
「……それ、桜庭の奴がこの曲でやりたいって駄々捏ねたからいつものセトリスから少し変えたけど」
「……もしかして、それってカタナギ?」
カタナギは「片や汀に揺られ」という曲の略称でバンド結成時からある曲だが、作った智昭が恥ずかしいという理由であまり演奏されていない。
「あの曲、告白をモチーフにしてるんだよな……」
智昭の言葉を最後に幾何かの沈黙が流れる。それを破ったのは奈乃香で、「浩君!」
呼ばれた浩はイヤホンを外しつつ「何?」と問い返す。奈乃香がつかつかと浩に歩み寄った。
「これ。心当たりある?」
奈乃香はスマホの画面を浩の眼前に掲げる。浩は目だけ動かして投稿を読み、一言。
「本当です」
「バカじゃないの!?」
奈乃香が悲鳴のような声を上げた。普段大人しい彼女にしては珍しいため、それまで傍観していた実伽が入ってきた。
「なのかったら落ち着いて! それ言ったらあたしもサクの元カノだよ?」
「元と今とじゃ違うのよ、みか達が付き合ってたのは結成前でしょ? そんな時期だったら誰も傷つかないもの」
「確かに!」
「え、そんなにまずい話?」
当事者が間の抜けた声で尋ねたものだから奈乃香が怒りだすかと思われたが、奈乃香は呆れてものが言えないようだった。代わりに実伽が口を開く。
「だって今カノが堂々SNSで交際宣言したんでしょ? 大多数のファンはサク目当てなんだからまずいって」
「でも、この子は俺の彼女じゃないよ。今の彼女は別の子」
「……はぁ?」
女子二人がハモる。奈乃香はもう訳が解らないという顔をして、「みか、ここはもう任せた」と実伽に全てを放ってしまった。実伽は、「嘘でしょ、なのか~」と泣き言を漏らし、この場をどうにか出来る力はない。
消去法で、今この展開を打破できるのは一人しかいなかった。
「桜庭」
「何?」
「だったらこのお前の彼女を名乗る女は誰なんだ?」
智昭のそれは、仕方ないから訊くけど本当はお前の事なんてどうでもいいんだからな、という本音が聞こえてきそうな訊き方だった。さすがに浩もバツが悪そうに頭を掻く。
「多分、この子は……先週だろ? じゃあみくるだ。みくるは俺のファンだって言ってくれた子で、それ以上じゃない」
「じゃあ何でこんな彼女面してるんだ?」
「うーん……あ、この前オフで会ってカフェに行った」
「それデートじゃん!」
実伽が大声で割り込んできた。
「明らかにデートだし! この天然人たらし遊び人!」
「実伽さんが言うとけなしてるように聞こえないんだけど。それは置いといてだ、桜庭」
智昭は真剣な調子に変わって言う。
「以前、有名ロックなバンドのヴォーカルに、恋人と名乗る人物がSNSに現れた。大多数のファンは信じちゃいなかったが、一部のファンが公式に問い合わせた。それから公式がヴォーカルの恋人ではありませんと宣言した」
「それがどうかしたのか?」
「僕達にとって、公式は僕達Red Stringsだ。問い合わせ先は僕達になる。しかし、僕やなのちゃん、実伽さんに訊いたって仕方ない。特に熱を上げてる連中は桜庭に直接訊くだろうな」
「…………」
「どうせこんな感じに本命は別にいるとか言って炎上するだろう」
「…………」
沈黙が再び場を支配した。皆の視線が浩に向き、数分後、浩は智昭に向かって土下座をした。
「カミサマ! どうか、どうか、この可哀想な俺をお助けください!」
「くっだらない」
私の感想に「あたしもそう思う」と実伽が同調する。
「くだらないとはなんだ! 俺は真剣に悩んでるのに!」
「ひろにいが悩みだしたのはさっきでしょうが。そもそも、自分で蒔いた種じゃない!」
すると浩はうっと言葉を詰まらせる。そして私を相手にするのを諦め、座っている智昭の腰に抱きついた。
「なあー、カミサマぁ。何とかしてくれよぉ」
「暑苦しい! 僕は何でも屋じゃないんだ!」
「なぁ、カミサマぁ、お願いったらぁ!」
「うるっさいな! 離れろ! ――っ、ああ、力強いな、もう!」
智昭がどうにかして引き剥がそうとしても浩は必死にしがみつく。
昔からよくある光景だ。浩が何かトラブルを起こし、その度に智昭を頼る。そしてこの光景には決まって続きがある。
「はいはい、ストーップ」
奈乃香が間に入り、浩の手首を容赦なく叩く。それが終わりの合図なのだ。智昭が口をへの字に曲げる。
「なのちゃん、もしかしてだけど」
「智昭君も解ってるでしょ? 浩が顔だけが取り柄の駄目人間なんだから」
「なのかさんひどい……」
浩が呟くがスルーされる。智昭は「何でいつも僕なんだ? ちゃんと一人でやらせないとこいつのためにならないぜ」と、こいつの部分で浩を親指で示す。
「仕方ないじゃない。浩に任せてたらRed Stringsは終わりよ。学祭での演奏を控えてるのに、醜聞を流してもいいの? お願いよ、ね、神様?」
奈乃香の言葉に、智昭は肩を竦める。
「……解ったよ、僕がなんとかする」
「智昭……!」
「いや、お前のためじゃないから。無事終わったら、一週間昼飯奢れよ? 絶対だからな?」
「はーい」
兄の返事は気が抜けていた。
「いつもごめんね、ともくん」
私が謝ると智昭は苦笑し、「りっちゃんは悪くないって。気にすんな」
私はうんと、俯きがちに頷いた。
「さて――」
智昭が口を開いた。
「現段階で最優先すべきはSNSに投稿された桜庭の恋人の情報の削除。投稿主の謝罪があるとなおよし。もしその匂わせ女が桜庭の彼女だったとしても百歩譲ってよしとし、最悪桜庭が刺される事も考慮に入れよう」
「俺死ぬわけ?」
浩の言葉は黙殺される。
「それでその方法だけど、桜庭の事を諦めさせる事が最良だと思う」
「でもそんなに簡単に諦めるものなのかな?」
疑問を口にしたのは実伽だ。尚、彼女は浩にフラれたのではなくフッた側のため、実体験ではない。
「おそらく難しいだろうな。けど、迅速に解決するには打ってつけだ」
「そうよね」
同意したのは奈乃香で、「浩君の駄目なところを百個ほど挙げれば嫌気が差すでしょう」
「えーと、集合時間に遅れる、割り勘するときは一円単位まで数える、酔ったら自慢話ばっかり、お化け屋敷であたしを置いて逃げる、あと」
「ストップストップ! よりにもよってリアルなのはやめて!」
実伽が浩の欠点を列挙していくのを、話の的の男が悲鳴に似た声で止めた。
さすがは元カノ、妹でも知らなかった兄の欠点をよく知っている。しかもまだまだありそうだ。
「浩君を嫌うように仕向けるのは難しいかもしれないけど、熱を失わせて他の人に移らせるっていうのでもいいかもね」
奈乃香の言い方は、暗に他の人――男性で残っているのは智昭だけだ――なら問題ないと示している。
――うん? ともくん?
「ダメッ!」
気づいたら口から言葉が衝いていた。
急に発言をした私に、四人全員の視線が集まる。とても恥ずかしくて、ここから消えてしまいたい。
すると智昭が一歩前に出て、「大丈夫だよ」とゆったりとした調子で言った。
「僕はそうモテないし、万が一僕に惚れたとしても、そんな会ったばかりの人の気持に応えようとは思えない」
聞いていて少々悲しくなる台詞だったが、それは私を安心させようと大袈裟に言っているのだ。私は知っている。智昭はそこそこモテている事を……。
でもそんなの、今は関係ないじゃない!
「そうだよね」
そう言って笑顔を作る。智昭も微笑を返しくれた。
あーあ、何でともくんが絡むと普通でいられないんだろ。こんなんじゃ私の気持ちがバレてるのも目に見えてる。でもともくんが言ってこないうちは、バレてない体でいよう。
その後、智昭を中心として作戦会議が行われ、私は決して何も言わないよう入念に口にチャックをしていた。
***
私と智昭は幼馴染だった。
正確に言うと、私と浩、智昭、奈乃香が同じ町内に住んでいた幼馴染みだ。
小さい頃は奈乃香を姉のように慕っていて、なのかちゃん、なのかちゃんと呼んでいつもくっついていた。奈乃香は一人っ子で、私を実の妹のように可愛がってくれていた。
浩と智昭は性格が合うわけではないけれど、一緒にいるのが当たり前のようにずっと一緒にいた。そこに奈乃香と私が加わって一緒に遊ぶ事が多かったけれど、いつも兄の浩が主導となっていて、智昭の印象は薄かった。
口数が少なく、色白で、どことなく怖いイメージがあったのを覚えている。そのため、私と智昭が一対一で話す事は少なく、いつも浩か奈乃香が間に入っていた。私が苦手意識を持っているのを智昭は幼いながらも感じていたようで、私に直接話に来るという事は滅多になかった。
兄達は同じ中学、高校は奈乃香だけ女子高に行ったけれども、浩と智昭は同じ高校に進み、大学でまた三人が集う事となる。そのため、関係が継続され、私は奈乃香を慕い、智昭に苦手意識を持ったままだった。
これが少しだけ変わったのは、私が中学二年生の時。兄達が高校二年生の時だった。
九月に入って学校祭が終わった頃。私はクラスで孤立していた。
元々は大きなグループにいたけれど、ある日私は弾かれた。今も何が原因だったか分からない。皆が同じストラップを付けてくる時に私だけ別の物を付けてきてしまった事かもしれないし、兄を紹介してと言われて断った事かもしれないし――当時、兄は実伽と付き合っていた――、平均点が低いテストで私が高得点を取った事かもしれない。
とにかく、私はつまはじきにされ、人生で初めて孤独を味わっていた。小さい頃から、兄達という遊び相手がいた私には、一人という時間が堪えられなかった。部活や遊びといつも休日には出かけていたが、その頃は部活もサボり、家に引きこもっていた。
そんな時、訪問者がいた。
「りっちゃん、いる?」
訪問者は智昭だった。しかし、その日、浩は実伽とデートに行っていて不在だった。
「ひろにいならデートだよ」
「知ってるよ。僕は桜庭がいるかって訊いてない」
確かにそうだ。智昭は私の在宅を尋ねた。
「じゃあ言い方を変える。りっちゃんは今、暇?」
「暇だけど……」
「上がってもいい?」
「別にいいけど……」
よくわからないまま、智昭を家に上げた。どの部屋に案内しようかと迷っていると、「桜庭の部屋、開いてる?」
「鍵もないし開いてはいるよ」
「じゃあそこで。りっちゃんも来て」
高校生になった智昭は浩の事を桜庭と呼ぶようになったけれど、私の事はまだりっちゃんと呼ぶ。子供扱いされているようで、どことなく面白くない。
浩の部屋に入ると、きょろきょろと辺りを見回す。そして智昭は兄のアコースティックギターを手に取った。
「それ、ひろにいの」
「知ってるよ。――りっちゃん、一曲、聴いてくれない?」
唐突な申し出に何と答えようか迷っていると、智昭はギターを鳴らした。そして演奏を始めたので、私は智昭の前に正座した。
智昭が弾くメロディーは単調だけれど聞いた事がなかった。少しして智昭の歌が付いた。やっぱり知らない歌詞で、私はそれとなく歌詞を咀嚼していた。
演奏が一瞬途切れ、またギターを弾いた。サビだ。
「人生は残酷で 時間は辛辣で それに意味なんかありゃしないって
環境は脆弱で 仲間は盲目で それに意味なんかありゃしないって」
その詞は今の私を歌っているようで、すとんと私の中に入ってくる。
「頑張れ頑張れ 生きろ生きろ そんな言葉には惑わされないって?」
そう、惑わされたりしない。
「でも僕は 君に生きて欲しくって だからさ」
智昭は私の事は見ていない。目を瞑ってギターを弾いている。
「何が何でも僕の隣にいてよ」
そのフレーズは力強かった。智昭がそこだけ声の調子を上げたからかもしれない。そんな原因はどうだっていい。
ただ言えるのは、私はその歌詞に惹かれた。
別に死にたいだなんて思っていたわけじゃない。でも、もしかしたらその時の私はそれほどどん底にいたのかもしれない。
好きな人から贈られた言葉じゃない。それでも、この時、私の展望は変わった。
智昭の演奏はそこで終わり、徐に目を開けると、私の顔を覗き込んだ。
「……その様子だと、何かは変わったか」
まるで私を元気づけるために演奏をしたのかのような口ぶり。普段の私ったら気味悪がっただろう。しかし、この時の私はこの曲に多大な興味を持っていた。
「この曲、誰の曲なの? 私この曲知らなくって。でも初めて聴いたけど、凄く好き、っていうか。もう一度ちゃんと聴きたくって」
矢継ぎ早にそう伝えると、智昭は困ったような顔をした。そして少しだけ悩む素振りを見せ、ポツリと言う。
「これ、僕の作った曲なんだ」
「……ともくんが?」
「うん、僕が」
次の句を継がない私に、智昭は苦笑した。
「引いたよな。自作の曲を急に聞かせるだなんて。あー、恥ずかし。僕、帰るから」
「待って!」
膝を立てて立ち去る準備をしようとする智昭を、私は引き留めた。智昭は少し怒ったような顔を見せる。
「どうして引き留めるの?」
「どうしてって……」
待っていう言葉は、口から衝いたもので、説明のしようがない。もしかしたら出来たかもしれないけれど、羞恥が邪魔をする。だけど何か言わなければ智昭は帰ってしまう。
「……もう少し、話をしようよ」
そんな事だけが言えた。智昭の返答は、「……りっちゃんって、僕の事苦手じゃなかったの?」だった。少し不思議そうな声音で、顔を見るとしまったという顔をしていた。どうやら彼も口から衝いてしまったらしい。
「確かに、私はともくんのことをちょっと怖いなって思ってた。でも、ともくんから、歌の事聞きたい。ともくんと話したい」
一気に言ってしまうと、かぁっと顔に熱が溜まった。智昭はというと、クスッと笑うと、また腰を落ち着かせた。
「じゃあお話ししようか、りっちゃん」
「うん」
それから、いろいろな話を聞いた。
智昭は小学生の時から小説を書いていた事。去年、それを見かねた浩が「一緒にバンドを組んで、作詞してくれない?」と誘ってきた事。今は小説を書くのを中断して、作詞に専念をしている事。父親が持っていたアコースティックギターを借りて、作曲も並列してやっている事。まだギターの腕前はまだまだだという事。来年の文化祭に向けていろいろと練習をしているという事。
話し終わると、智昭は私の近況を尋ねた。智昭が話してくれたんだから、と私はありのままにはなした。
クラスで孤立している事も、毎日が寂しい事も、ちゃんと伝えた。
すると智昭は心配そうな顔を見せたが、私は「でも大丈夫」と反論する。
「ともくんの作った曲を聴いて、気分が変わった。私、ちゃんと皆と話し合うね。それでも駄目だったら、そこまでって事で」
「吹っ切れたね」
くすくすと笑う智昭につられて、私も笑ってしまった。
そんな事をしていたら、時は夕方になり、浩が実伽を連れて帰ってきた。
そこで実伽をギタリストにするなんて言い出して、智昭が担当楽器を変更せざるを得なくなるのだが、ここでは省略。
そんな事があり、初めは智昭の作品に、そして徐々に私は智昭という人物に惹かれていった。
智昭と同じ学生生活を送りたいと、智昭と同じ大学に入れるよう勉強して、今に至る。
私と智昭の距離はあれから思えば縮まったけれど、まだ幼馴染という枠は超えられていない。
***
私と智昭はカフェのテーブル席で対面していた。
決してデートなどではない。悲しい事に。
二人で歓談しているように見せかけて、チラチラと窓の外を見遣る。外には浩がいて、そこから少し離れたところに奈乃香と実伽。浩はスマホをいじっていて、奈乃香達はお喋りに没頭している――ように見せかけている。
我々は、自称浩の彼女を待ち伏せしている。
作戦は簡単だ。
浩に自称彼女を呼び出してもらい、直接会って説得する。浩だけだと不安なので、というかは失敗する可能性が高いので、奈乃香達がヘルプとして待機しているという形だ。ちなみに、私と智昭は浩と自称彼女の動向を奈乃香達に伝える役回りである。
「上手くいくかな?」
私が疑問を口にすると、「成功させなきゃなんないだろ」と智昭はコーヒーを啜る。
「面倒臭くない相手だといいんだけどな」
「それはそうだね。あ、そうだ。あのさ、ともくん」
「ん?」
「前ひろにいに言われて変えた曲ってカタナギだったって聞いたけど、何であの曲は全然演奏しないの? 私、あの曲好きなのに」
カタナギはあの時智昭が歌ってくれたものを基にした楽曲だ。智昭には発表する意思はなかったのだが、浩に見つけられてしまいRed Stringsで発表する運びとなった。
「だってそりゃあ……恥ずかしいんだよ」
「他の同時期に作った曲は演奏出来るのに?」
「他のって……ぅうん」
「何で黙っちゃうの」
智昭はやけに難しい顔をして、頭を掻く。そして、んー、とない呻きの末、「あの曲は」と切り出した。
「りっちゃんのために書いたんだよ」
私の視線から逃げるように窓の外を見た智昭は、「あ」と声を上げた。
「来た」
「誰が?」
智昭は私の質問には答えず、スマホの通話画面を立ち上げた。相手は奈乃香だろう。
「自称彼女が来たぞ」
そして返答があったのか、すぐに通話を切った。
私のために書いたという言葉の真意を知りたかったが、智昭の意識はもう、突如現れた浩の自称彼女に向いている。仕方なく私も窓の外に目を向けた。
みくるという名の浩の自称彼女は泣きはらしたようなメイクをして、ロリータファッションに身を包んだ女性だった。浩の今までの彼女の誰とも系統が違っている。
「大丈夫そうかな?」
私が言うと、「油断するな。桜庭だぞ」と釘を刺される。相変わらず智昭の我が兄に対する評価は低い。そして智昭の予感は的中するのだ。急にみくるの様子がおかしくなった。浩から距離を取り、浩が伸ばした手を払いのけた。
すぐに智昭は奈乃香に電話をする。電話を切ると、「僕達にも向かって欲しいそうだ」
「分かった」
智昭はコーヒーを飲み干し、私も残りのモカを口に流し込んだ。料金は前払いのため、ゴミを捨ててすぐに外へ出た。
状況は変わっていた。浩と実伽が並び、奈乃香がみくると対峙している。しかし、何かがおかしい。みくるは熱っぽい目を奈乃香に向け、奈乃香はそれにたじろいでいる。
困惑していると、みくるが真っ赤なルージュを引いた唇を開いた。
「やっとお会い出来ました、ナノカ様!」
場所を映して、今度はファミレス。
六人掛けのテーブルに、私と浩、奈乃香とみくる、実伽と智昭が早退するように座っている。みくるは顔を赤く染めているが、その原因は両脇の男ではなく、目の前の奈乃香だった。
簡潔にまとめると、みくるは浩のファンではなく奈乃香のファンで、彼女に近づくために浩に接触したという事らしい。つまり、浩はまんまとダシに使われただけなのだった。
その事実を知った時、私は思わず笑ってしまい、兄から片頬を抓られた。まだ痛い。
いつもならこういった場は奈乃香が仕切るのだが、当事者だと話しにくかろうと、智昭が主導権を握っている。
「じゃあ、みくるさんはなのちゃんのファンであって、桜庭なんて眼中にもなかったと」
「そこまでは言うなよ」と浩が苦い顔をするも、みくるが「はい!」と元気よく返事をするものだから、浩はファンが幻滅しそうな顔をした。
それに智昭はくすりと笑ってから、「だったらわざわざ桜庭の恋人を名乗らなくてもやりようは他にもあったんじゃないのか?」
もっともな質問にみくるは膨れっ面をした。
「私、普通のファンとして見られたくなんかないんですぅ。それに、ナノカ様がエゴサをされている事は知っていたので、サクの彼女を公言すれば、もしかしたらナノカ様が見てくれるんじゃないかって思ったんですぅ」
そして現に、みくるの思った通りに事が進んだわけだ。
「ねぇ、みくるちゃん」
口を挟んだのは実伽だ。
「解ってると思うけど、奈乃香はそんな事をしたってみくるちゃんと付き合いますって言わないよ?」
「それは解ってますよぉ」
みくるはムッとした表情を作る。
「ナノカ様は神聖な存在なんですぅ! そんなぁ、下賤な私と付き合うだなんて、解釈違い甚だしいですっ」
みくるは心外だという顔をしている。
「じゃあ」
奈乃香がこの場で初めて口を開いた。
「こういう騒がせるような事は今度からはしないようにね。ファンだとしても、そんなのは嬉しくないから」
「……はい」
奈乃香に言われ、みくるもさすがにしょげているようだった。メイクの影響で再び泣きだしそうにも見える。そんなみくるに、奈乃香は優しく声を掛ける。
「こういった事はいけないけれど、今度またライブはあるから、来てもらてるかな?」
するとみくるは本当に泣き出した。
「はい!」
そして可愛らしい、清々しい笑顔をして見せたのだった。
この時、私はどうして奈乃香がそう言ったのかを知らなかった。
そしてそのまま、学園祭でのライブを迎える。
大学生活初の学園祭。
私はどのサークルにも所属していないので、Red Stringsのライブの予定に被らないようにして友達と学内を回る事にした。
他の友人のサークルから買ったたませんを片手に、人でごった返すメインストリートを歩む。食べ歩きをした後、友人が行きたいという占いに連れていかれた。特に占って欲しい事はなかったけれど、友人とタロット占いのお姉さんに唆され、恋愛運を占ってもらった。カードを混ぜる時、智昭の顔を頭に浮かべながら。
タロットが一枚ずつめくられ、その度にお姉さんがカードの解説をして、私の運勢に当てはめる。総合運としては、まずまずといったところだった。
お礼を言い、立ち去ろうとした時、タロットのお姉さんがにんまりと笑い、「彼氏さんを大切にね」
「……そこまで分かるんですか?」
思わず尋ね返すと、お姉さんは笑って、「だってあんまりに可愛い顔をして混ぜてたものだから」
それを聞いて、耳まで血が上った。
それからシフトがあるからという友人と別れ、私は一人でライブへと向かった。
その道すがら、男四人衆に声を掛けられた。
「そこのおねーさん! 俺達と一緒に遊びに行きませんか?」
軽薄なそれに苦笑してしまったのは、彼らが知り合いだったからだ。
「もう、からかわないでくださいよ」
彼らはRed Stringsと対バンをした地元出身のインディーズバンド、The Awkward guysだ。控室に行った事もあるので、メンバーでない私も見知った仲だった。
「いや、でもりっちゃんみたいに可愛い子だったら引く手あまただろ? ちゃんと青春してるかぁ?」
「調子に乗るんじゃないっ!」
なおも軽口を叩くギタリストのハジメだったが、ヴォーカリストのアキラにはたかれた。そう茶化されるのはあまり好きではないが、二人のやり取りに思わずくすりと笑ってしまう。
「皆さん、兄達のライブに来てくれたんですか?」
そう尋ねると、ベーシストのミツルが「うん、だって神様の智昭君が最後のライブだっていうから」
……最後?
「あー、もう言葉足らずなんだから」
ドラマーのシュウが溜息交じりに言い、「学祭最後のっていう事。今年皆卒業でしょ? 現役学生としての学祭ライブは最後ってね」と淡々と続けた。
「なんだ、そういう事なんですか」
胸を撫で下ろしていると、リーダー格のアキラが「さ! そろそろ出番近いだろ? いいとこ取らないとな!」と声を上げたため、私は随分年上のバンドマン達と行動を共にする事となったのだった。
会場に着くと、席の入りはまちまちだった。
前のバンドが演奏を終了して退場するところだった。この十五分後にRed Stringsの出番だ。
私は少しベース側の、前後左右から見てほぼ真ん中に位置する椅子に座った。少し離れたところに年上のバンドマン達が座っている。
ライブ前特有の高揚感に包まれながら、目の前の人達を見つめる。目当てのバンドが終わって去っていく人、そのままの席に腰掛ける人、外からやって来て椅子に座る人。
今日は何の曲をやるのだろう。持ち時間は二十分、曲は演奏して四曲、トークを少し、といったところか。やっぱり、智昭の自信作の「終末」だろうか。それともみくるが好きだと言っていた「milk show」か。私の好きな曲はやるだろうか。
聴きたい。聴きたいな。
そわそわしているとすぐに時間は過ぎてしまい、Red Stringsの出番になった。
まずギタリスト実伽が顔を見せ、次にドラマーの奈乃香。この時点でほとんどの客は立ち上がっていた。続いてベーシストの智昭。そしてヴォーカリストの浩の順番だった。
持ち場に着くと、前列にいる実伽、浩、智昭が奈乃香を見た。奈乃香はにっと笑うと、「ワン、ツー、スリー!」
ドラムの激しい音が響き渡る。奈乃香の結ばれた後ろ髪が生き物のようにうねる。そこに智昭のベースが加わる。智昭は目を閉じている。そして実伽のギターサウンドが入る。実伽はにこにこと笑い、会場を見回している。
激しいイントロが終盤に近付いた時、浩が固定されたマイクを握った。瞬間、甘いマスクが豹変する。大きく口を開け、苦しそうに眼を閉じ、全てを吐き出すようにシャウトをした。そしてすぐに目をパッとかっぴらき、Aメロを歌っていく。
自然と身体が揺れる。足はステップを踏みたがる。手はリズムに合わせて音を鳴らしていた。気づかぬ内に、兄と同じ歌詞を口パクで歌っていた。
曲がサビに突入すると、私は腕を振り上げた。小学生の授業の時でさえも、こんなに高く腕を上げなかっただろう。リズムに合わせて膝を折りつつ、腕を前後に振った。
目の前の浩はふわりとした印象を受ける普段と全く違うオーラを放っていた。眉間に皺を寄せ、智昭の書いた詞を歌声で表現する。まるで何かに取り憑かれたかのように。いや、実際取り憑かれているのだろう。音楽という魔物に。
一番が終わると幾らか冷静になり、周りの様子も見る事が出来た。前の方では浩のファンの女の子が群がっている。盛り上がるところではないのに腕を振っている。
その後ろにロリータ姿が見えた。身体は奈乃香の方を向いている。きっとみくるだろう。
ちらと右前方に目を動かすと、The Awkward guysの四人が思い思いに身体を動かしている。彼らから見ればRed Stringsの演奏は拙いだろうけれど、目の前の音楽に向き合っている。いい人達なのだ。
気づけば曲は終盤に入っていた。原曲よりも長くドラムを叩いて盛り上げを図る。私はそれに合わせて強く手を叩く。浩が薄く笑みを浮かべ、大きくジャンプをした。その着地に合わせて演奏は終わった。拍手は続いている。
浩が前髪を掻き上げ、取り巻きの女の子達が黄色い歓声を上げた。浩はマイクを掴み、「今日はお越しいただきありがとうございます。短い間ですが、よろしくお願いします!」
拍手が鳴り止まぬ間に次の曲に移った。前奏はテレビで聴いた事のあるものだ。背後から歓声が聞こえた。これはオリジナル曲ではなく、カヴァー曲。浩が好きなバンドの代表曲だった。クラップが多いのでライブにもってこいだ。
先程の激しい曲とは打って変わり、浩はにこにこと笑いながら歌う。奈乃香にも余裕があるようで笑っている。実伽は大体の曲で笑顔を浮かべているので、勿論今は満面の笑みだ。智昭はというと、同じステージに立っている仲間を眺めながら弦を弾いていた。
そこに、違和感を覚えた。しかし、今はライブ中。私は違和感を放り出した。
カヴァー曲が終わると、すぐにオリジナル曲に戻った。ゆったりとしたバラード。聞いた事がないから新曲だろうか……しかし、リズムには少し覚えがある。智昭独特の造語の多い歌詞。特徴的な音数の多さは息を潜め、浩の伸び伸びとした声が通る。
それは旅立ちの曲だった。住み慣れた地元を離れる主人公。明るい未来。広がる希望。友人達に送り出されるも、後ろ髪を引くのはずっと片想いをしてきた人。
「せめてせめて どうか恋よ散らずに
燦々とした光の中 飲み干したのは恋の欠片」
そんな歌詞で曲は終わった。曲はよかった。しかし、拍手が出来なかった。周りではその音がしているのに。何やら嫌な予感が、私の中を占めていた。
そしてそういうものは、得てして当たるものなのだ。
Red Stringsのトーク担当は浩だけで、他の三人はほとんど喋らない。しかし、今、智昭が話し出した。
「えー、皆様。ご傾聴ありがとうございました。あまり喋りは得意ではないのでご容赦ください」
心がざわつく。
「今演奏した曲は『片や汀に揺られ』のアンサーソングです。いかがでしたでしょうか?」
智昭が一呼吸置くが、客席からの声はない。皆、智昭が話しているのに驚いているのか。
「よかったぞー!」
そう声を上げたのはハジメで、続いて「さすがカミサマ!」とシュウの声が続いた。それに智昭は微笑を零し、「ありがとうございます」
そして、私と目が合った。智昭は私を見つめ、口を動かした。発声はされていない。私に読心術なんてない。でもその三文字は判ってしまった。
智昭は息を吸い、「皆様、ご報告がございます」
言わないで。
「僕、神山智昭がRed Stringsとしての活動を行うのは本日で最後となります。皆様、今までありがとうございました」
智昭が頭を下げると、すぐにまばらな拍手が起こった。それはThe Awkward guysの四人からだった。彼らは知っていたのだ。そう、先程のミツルの言葉は本当だったのだ。それを知られないよう、シュウがフォローを入れた。
ともくん、私聞いてないよ。そんな事聞いてない。嫌だ。嫌だ。ともくんが辞めるだなんて。
目頭が熱くなったと思ったら、すぐに涙が溢れてきた。私はずっと智昭を見つめていたけれど、一度も目は合わなかった。
「急なお知らせで驚かせてしまってすみません」
そう謝ったのは智昭ではなく、浩だった。
「最後の一曲は智昭への餞別です。それでは聞いてください。『片や汀に揺られ』」
最後の曲が、智昭の演奏する最後の曲が始まった。私は――跳んでいた。
気持ちの整理がつかず、頭の中はぐしゃぐしゃだ。けれども、身体は自然と動いていた。
私の大好きな曲。私を救った曲。智昭の事を好きになった曲。無視をするには、あまりに想いが詰まっていた。
私と智昭は幼馴染。智昭がベースを辞めても、会えなくなるわけじゃない。でも私は、神山智昭だけでなく、Red Stringsのベーシストとしての智昭も大好きだったのだ。神山智昭という人に恋をし、Red Stringsのベーシストのファンだった。
涙は止まらない。でも拭えない。今の手はライブを楽しむためにある。どんなに不細工な顔でも、最後のこの瞬間を逃してしまったら、一生後悔する。
「運命の赤い糸 僕の小指の糸は千切れてる
君は笑って 小指の糸を切って笑う
千切れた糸と千切れた糸を 結び直して
なんて強引な運命」
浩の歌唱パートが終わった。あとは後奏のみ。ベースの音は聞こえない。そういうものだ。けれど私には智昭の奏でる音がしっかりと聞こえてくるような気がした。
終わりは呆気なかった。演奏を終えた四人は口を揃えて「ありがとうございました!」と言うと、深く一礼した。私は割れんばかりの拍手を送った。そして皆はステージから降りる。
神と呼ばれた男は、ただの人間となった。
***
「なんて事があったよね」
彼の身体にもたれかかってそう言うと、不機嫌な声が降ってくる。
「りっちゃんはいつまで覚えているの。そろそろ忘れないの?」
「忘れないよ。ともくんの事だもん」
智昭の溜息が聞こえる。私はクスッと笑ってしまった。
今、私と智昭は東京で同棲している。
智昭の就職先が東京になり、一旦は離れ離れになった私達だったが、私は何としても智昭に会いたくて就職先を東京にした。なんて不純な動機だっただろう。
智昭の連絡先は知っていたからいとも簡単に二人は再会し、一ヶ月ぐらいで交際する事になった。
とんとん拍子に話が進みすぎではないかと思われるだろう。だが、そうではないのだ。実は私と智昭はずっと両片想いの状態が続いていたのである。これは付き合って半年の時に知った事実だけれど。
姉のように慕っている奈乃香に報告した時に、「やっと?」と笑われた事からも分かる。
今は付き合って三年、同棲し始めて二年だ。
「私ね、小説を書いてる今のともくんも好きだけど、ベーシストのともくんも大好きだったんだよ。神様みたいだった」
「神様みたいって……りっちゃんもそんな事を言うわけ? りっちゃんも神様になるんだよ。女神様か」
「何恥ずかしい事言ってんのよぉ。私が女神って……照れちゃうよ」
頭を左右に動かしてぐりぐりと攻撃していたが、智昭からの返答はない。おかしいと思い彼の顔を見ると、難しい表情を浮かべていた。
「どうしたの?」
「……気づいてないか」
「うん、おそらく気づいてない」
「……そうだったな、その大学の時もそうだった」
「大学の時って、あの最後のライブ?」
あの時、智昭が作ったカタナギのアンサーソングは、なんと私への告白だったのだ。智昭のファンだった私だが、それが全く解らなかったために、智昭に告白種明かしをさせるとんでもない羞恥プレイをさせてしまったのだった。
「何? 鈍感だって言いたいの? そうじゃなくって、ともくんが遠回しすぎるんだと思うよ。私がともくんの事好きじゃなかったらフってたよ」
「……ちなみに、今は?」
「ともくんの事? 大好きだよ。大好きな彼氏さん」
「ん、じゃあいいな」
智昭は口許に笑みを浮かべて、懐から小さな箱を取り出した。
これはまさか。
「開けてごらん」
「……う、うん」
伸ばす手が震える。
だってこれってきっとあれじゃない。もうあれしかない。
震える手で箱を開ける。そこには思い描いていたものがあった。
「あ、あ……」
私は喘ぐように智昭を仰ぐ。すると恋人は意地悪な笑みを浮かべた。しかしそれをすぐに仕舞い、真面目な顔をして言うのだ。
「莉莉、僕と結婚してください」
その言葉に、ぶわっと涙が溢れてきた。智昭の顔が滲んでしまって見えない。そんな私の涙を、智昭の指が優しく掬ってくれた。
私はなんとか笑顔を作った。ぎこちなかったかもしれない。しかし、それは関係ないのだ。
「もちろんですぅ」
私は智昭に抱き着いた。智昭は、おぁっと声を上げたが、一旦婚約指輪を置いて、私を抱きしめてくれた。
☆☆☆
「何が何でも僕の隣にいてよ」
「飲み干したのは恋の欠片」
「なんて強引な運命」
〈終〉