◇7◇困惑
そこから俺は、どうやって自分の家に帰ったのかよく覚えていなかった。
さっき、篠原さんがそうっと俺の耳に打ち明けてくれた言葉が、何度も何度も頭の中で回り続けていたから。
――ぼく、ほんとはちゃんとした『女の子』じゃないんです。
――ほんとの名前は、『篠原和馬』。
――戸籍上は、男子ということになってるんです――。
(そう……だったんだ)
俺はなんだか、やっと色んなことがわかった気がした。
篠原さんが、どこのサークルにも所属しないで、いつもひとりで行動していること。あれだけ可愛くて男どもにもてまくりなのに、ちっともそれを喜ぶ風じゃなくて、むしろいつも困ったような顔だったこと。
普通、どんなに性格のいい子だって、あれだけ可愛くて男にもてたら、そういう自覚ぐらいはあるもんだ。どんな深窓の令嬢だって、自分の美しさだとか可愛さだとかはちゃんと分かってて、それに相応しい態度を身につけて生きているもののはずだから。
でも、篠原さんはそうじゃない。
すでに彼氏がいるからってことを差し引いても、まず男からそういう目で見られること自体に免疫がない感じで、声を掛けられた時のあしらい方もよくわかってなくて、ただもうひたすら困っていたもんな。
(なるほど……。ちょっと、納得したなあ)
そりゃ彼氏さん、めちゃくちゃ心配に決まってるよなあ。
どんな人かはまだ分からないけど、篠原さん曰くもともと男が好きって人でもないらしいし、そのへん、ちょっと佐竹に似てるとこがあるかも。
きっとすごくいい人なんだな。篠原さんが「ほづはね」って彼の話をするとき、とんでもなく幸せそうな笑顔になるの、わかる気がするよ。
◇◇◇
そんなことを考えながら駅前のスーパーでいつものように買い物をしていたら、背後から唐突に声を掛けられた。
「……それ、やめといた方がいいぞ」
聞き覚えのある、低い声。
「『まだ今日の最安値じゃない』?」
間髪いれずにそう返し、笑って振り向く。
もちろん、振り向く前から声の主はわかってた。
「佐竹。えらく早かったんだな、今日」
「ああ。午後は休講になってな」
背後に立っていたのは勿論、件の俺の恋人だった。
佐竹煌之。
一応俺と同い年の大学一年生のはずなんだけど、持ってるオーラが違いすぎて、とても同い年とは思えない。もともとあまり高校生っぽい服装をしない奴だったこともあって、大学生になっても今までと大して違わない雰囲気だ。
今日もまた、一見して成人男子にしか見えないような服装。シンプルなんだけどきっと素材はいいんだろうなと思うようなシャツとスラックス姿。
ショルダーバッグを肩に掛け、買い物かごを手にしている。相変わらずの姿勢の良さだ。
「あ、そうだ。さっき篠原さんと会ってたんだよ」
そう言っただけで、佐竹は片眉をぴくりと上げた。駅構内のコーヒーショップの名前を挙げて、俺はもう少しことの経緯を説明する。
「……それで」
「うん。詳しいことはここではちょっと……なんで、あとで話すけど。今度、あっちの彼氏と、女友達に会わせてもらうことになったんだ」
たまねぎなんかを選びながらそう言ったら、佐竹がぎろりとこっちを睨んだ。
あれ?
俺、なんか変なこと言ったかな。
「……一人でか」
「え? ああ、まあ……。だって佐竹、週末も忙しいだろ? 資格試験の勉強もあるんだし、剣道場の手伝いとかさ――」
佐竹はふと顎に手をやり、眉間に皺をたててほんの少し考えたみたいだった。
「……いや、大丈夫だ。俺も行こう」
少し横を向いて、そのあとぼそっと「多勢に無勢に過ぎるだろう」とか言ったのが、聞こえたような聞こえなかったような……いや、はっきり聞こえました。
ああ、心配してくれてるんだなあ。
嬉しいけど、ちょっと恥ずかしい。俺、幼稚園児じゃないんだからさあ。
なんだかいっつも忘れられてる気がするんだけど、俺、ほんとは二十五だからね?
お前より六こも年上だからね?
って言っても、ちっとも納得して貰えないのは分かってるけどさ。
ま、それはそれとして。
「な、佐竹。今日、うち来る?」
ついと目を上げて、佐竹が俺をまっすぐに見る。向こうのほうが少し背が高いので、俺は僅かに目線を上げることになる。
「な? せっかく今日、早いんだし。洋介だって喜ぶし。久し振りに、うちで一緒に晩メシ食おうよ――」
「…………」
あ、目もとがちょっとだけ優しくなった。
ほんのちょっとの違いだけどね。
これ、最近わかるようになったんだよな、俺も。
ほんと言うと、せっかく家だって近いんだから、毎日だって一緒に食べたい。でも、大学に入ってからの佐竹はいつも帰りが遅くなりがちで、うちの親父があんまりいい顔しないんだよな。こいつ自身も「遅くなってから人様の家に上がりこむのは」ってすぐに遠慮しちまうし。
気のせいかも知れないんだけど、夜の時間に俺と会うのは、なんとなく避けているようにも思う。うん、……まあ、気のせいだとは思うんだけど。
俺はもっともっと、お前と一緒にいたいのに。
なんか、受験勉強でひいひい言ってたときの方がたくさん一緒にいられてた気がする。いや、間違いなくそうだったよ。勉強はもう、ほんと泣きたくなるぐらい大変だったけど、それでもお前と一緒だから頑張れたんだし。……一緒にいられるの、楽しかった。ときどき雷落とされるのだって、ほんとは嬉しかったのに。
……だからちょっと、俺は寂しい。
電話は毎日のようにしてくれるけど、それだけで一日が終わるのはなんだか悲しい。
周囲に人目がなくなったのを確認してから、俺は買い物かごに隠すようにして、そっと佐竹のシャツの袖を握った。
「ね……いいでしょ? 来てよ……佐竹」
その一瞬、きらっと佐竹の目にあの熱を含んだ不思議な光が浮かんだ気がした。
けど、佐竹はすぐにぎゅっと一回目を閉じて、敢えていつもの顔にもどったみたいに見えた。
なんだろう。
最近こいつ、ちょっと様子が変なんだよな。
「……ああ。なら、今日はお言葉に甘えさせてもらう」
「やった! じゃあ今夜、何にしよう? なにが食べたい? 佐竹の好きなもの、俺、がんばって作っちゃうぞー!」
嬉しくて小躍りしたら、後ろから来ていたおばさんの買い物カートが、危うく俺にぶちあたりそうになった。
「……わ!」
途端、佐竹の腕がぐいと俺の襟首を掴み、俺の体はあっという間に佐竹のそばに引き戻されていた。なんだか俺、猫の子みたいだ。
「申し訳ありません」
佐竹が会釈をしてそう言うと、おばさんはちらっとこちらを睨むような目をしただけで、何も言わずにそのままカートを押して行ってしまった。
「……いい歳をして、店の中で暴れるな」
早速、お小言が降ってきた。
「はーい……」
いいんだもんね、わざとだから。
それ、して貰うためにやったんだもんね。
だってこういうことでもなかったら、外で佐竹が俺に触れてくれることなんてないじゃないか。
気のせいかもしれないけど、佐竹の手が俺の首筋に触れている時間も、普通よりは少しだけ長いもののようだった。
「……へへっ」
俺はにやけてくる顔を必死にもとに戻そうと努めながら、その顔を佐竹に見られないようにと先へ歩き出した。
佐竹がゆっくりした足取りでついて来る。
ああ、まるで、あの頃みたいだ。
はじめてお前とちゃんと話をした、あの時みたい。
俺たち、ここから始まったんだもんな。
俺はそのまま、佐竹と今夜のメニューの相談をしながら、スーパーの通路を歩いて行った。