◇3◇佐竹
『それで、大学のほうはどうなんだ』
落ち着いた静かな声がスマホから俺の耳に届く。
「うん。だいぶ慣れたよ。サークルは入ってないから、友達なんかはそんなに出来てないけどさ。食堂でもひとりで喰ってる。別にそれで困ることもないし、いいかなって」
『……そうか』
ああ、こいつの声きくとほっとするなあ。このところ、あんまり会えてないから余計かも。
窓の外は、もう夜の時間だ。
家事も終わって、風呂も入って洋介を寝かしつけて。親父はリビングでくつろいでいる。いまの俺は、この時間に自分の部屋でこいつと電話で話すのがほとんど日課みたいになっている。
別々の大学に通うようになってから、こいつ――佐竹煌之――はとても忙しくなったようだった。いや、もちろんもとから、部活以外にも地元の剣道場で子どもたちの指導なんかもやってたりして、忙しくなかったわけじゃないんだけどさ。
俺と違って、こいつの入学した大学はハイレベルなだけじゃなくてちょっと遠いし。まあ、もともとずっと続けてきた剣道の朝稽古で早起きは全然苦じゃないんだろうけど、間違いなく忙しさは倍増したはずで。
それでもこいつは飄々として、勉強も剣の鍛錬も手を抜かず、相変わらず淡々とやるべきことをこなし続けているらしい。なぜか知らないけど、大学の講義もめいっぱい入れてる上に、他大学の通信で何かの資格も取ろうとしてるみたいだし。
さすがは佐竹。一体、ひとりで何人分のタスクをこなしてるんだか。俺ももうちょっと、見習わないとな。
母さんがいなくて、まだ小さい弟もいて、家事全般をほとんど一人でやってるぐらいのことで泣き言なんて言えないよな。
こいつだって実質、ひとり暮らしみたいなもんなんだし。
佐竹の家はうちとは反対に親父さんがいなくて、お母さんは海外を飛び回る超多忙なキャリアウーマン。家には一ヶ月に一回、帰ってくればいいほうらしい。つまりこいつも、家事は実質、一人で回しているわけだ。
「佐竹はその、大丈夫……? なんかものすごく忙しそうだけど、無理とかしてない? 体調くずしたりとか、してないよな?」
余計なことだろうとは思いつつ、俺はやっぱり心配だからそんなことを訊いてしまう。佐竹が少し、電話口で黙ったようだった。
『……ああ、問題ない。生活サイクルそのものは大して変えてないしな』
やっぱり、返ってきたのは思ったとおりの言葉だった。
『俺のことより、お前はどうなんだ。食事は手を抜いたりしてないだろうな。洋介はまだまだ育ち盛りなんだから、栄養面には気を遣ってやるんだぞ』
「ん、わかってる。それもあってサークル入ってないんだし。むしろ高校のときより余裕できたぐらいだから。まあその代わり、慣れるまではバイトなんかはできないけどさ――」
洋介っていうのは、俺の弟だ。今年で、小学四年生。
母さんを亡くしてもう二年になるわけだけど、俺や父さんを困らせないようにと気を遣ってくれているのがよく分かる。寂しいだろうに、それで泣きごとを言ったりだとか、ひねくれて癇癪を起こしたりなんていっさいしない。
実の兄である俺が言うのもなんだけど、あの年でほんと、健気だと思う。なんか見てると、俺のほうが泣けてきちゃうことがあるもんな。
だけど、そうやって洋介がしっかりやれているのはもちろん、間違いなくこの佐竹のサポートもあってのことだとも思ってる。俺自身もそうだけど、こいつはあの事件以来、俺の家族のこともずっと支え続けてくれているからだ。実際、俺があの大学に入れたのだって、こいつのサポートがあってこそだったんだから。
だから俺は、ずっとこいつに頭が上がらない。そして、心から感謝もしている。
「心配してくれてありがとな。でも、大丈夫だよ。俺だってここんとこ、家事の手際もよくなったし。お前のおかげで料理の腕も、だいぶ上がったんだからな〜?」
へへっと笑ってやったら、佐竹がまた少し沈黙した。
『……そうか』
俺、わかる。
あいつ今、電話の向こうでちょっとだけ、口の端を引き上げて笑ってるはず。
「精悍」なんて言葉が本当にぴったりくる、ちょっと怖くて古風で無骨な感じはあるけど間違いなく二枚目のあの顔で。
ああ、好きだな。見たいなあ。
ものすごーく珍しい、ほとんど天然記念物みたいな佐竹の笑顔。
俺、あの笑顔が大好きだから。
「ああ、そういえばさ――」
そこで俺は、あの哲学の講義で一緒の、例の彼女の話をした。なんかこう、なんとなく、こいつに黙っているのは悪いと思ったし。別に後ろ暗いことなんてなんにもないわけなんだけど、黙って勝手に女の子と一緒に外を歩いていたなんて、後で知られて怖い思いをするのもいやだったし。
これはまあ、これまでの経験から学んだことのひとつだったりするんだけど。俺の場合、あとからバレた形になっておたおたすると、さらにひどい結果になることが圧倒的に多いんだよなあ。
佐竹は黙ってその話を聞いていたけど、やがて低い声でこう訊いてきた。
『相手は「彼氏がいる」と明言しているんだろう。相手の男の反応次第では、お前が危ないことになるんじゃないのか。そのあたりのリスクは考えてるのか』
「あー。なるほど。そういうことは、あるかもなあ……」
俺は頭を掻いて考える。
篠原さんの彼氏さんがどんな男かは知らないけど、あっちだって俺のことをよく知らないんだから、あっさり「大事な彼女についた虫」扱いされたとしたって、俺は文句の言えない立場だ。下手したら、ぶん殴られるかもしれないよなあ。
殴られるのは、やだなあ……。痛いし。
『ともかく。その篠原とかいう女には、ちゃんと釘を刺しておけ』
「え? 釘って、何をどうするんだよ。相手は女の子なんだよ? あんまり怖い思いとかさせたくないんだけど、俺は」
『別に脅せとは言ってない。なんならはっきり教えておいたらどうだ。「俺の恋人は男です」とでも言っておけば、むしろ向こうの男は安心するんじゃないのか。俺は別に、構わんぞ』
「って、こらこらこら! なに言ってんの、佐竹!」
そんなリスクの高いことができるか。
もしも篠原さんの側にも、周囲に言って欲しくない秘密かなんかがあるとかいうならともかくさ。
……そう。
俺の恋人っていうのは、こいつのことだ。
佐竹とは高校のころ、ほんとに色んな、いろんなことがあって。最初はもちろん、お互いに単なる友達としての付き合いだったわけなんだけど。
ついでに言うと、その時の体験そのものは、多分ひとに話してもすぐには信じてもらえないような、かなり突飛なものだった。
その後、やっぱりあれこれあった挙げ句、俺たちは遂にこういう関係になった。
俺はこいつがいなかったら、多分いま、ここにこうしていることすら不可能だったに違いない。もしもあの時、佐竹が追いかけて来てくれなかったら、誰にも見つけてもらえないまま、向こうでひっそりと命を終えるしかなかったはずだから。
俺は無意識のうちに、そっと耳の先の手術痕を指先でなぞった。
(……だから。)
だから、佐竹は俺の命の恩人だ。
そして今は、見ての通りの男同士ではあるんだけど、こういう関係にもなっている。
それも、双方の親も公認で。
ただし、佐竹のお母さんがびっくりするぐらいすんなりOKしてくれた一方で、うちの親父には「成人するまでは清い関係でいてもらいたい」とかなんとか、しっかり釘を刺されちまったんだけどな。
そんなわけで今のところは、俺と佐竹は軽いキスとハグをするだけの、とてもプラトニックな関係だ。
クソ真面目が服を着て歩いてるような男である佐竹は、その約束をこれまで一度もたがえたことはない。それは人が見ていようがいまいが、少しも変わることはなかった。
いや、実際は何べんか、ぐらっと来かかったことはあるみたいなんだけど、どうにかこうにか耐えてくれている……らしい。よくわかんないけど。なにしろ表情があんまり変わんないもんだから。
だけど、そういうスイッチが入っちまった時の佐竹の目は怖いぐらいに色気があって。もしもあのまま押されたら、俺なんて到底、抵抗できないだろうなと思う。
俺、こいつに抱かれたらどうなっちゃうんだろう。
……二十歳になるのが、怖いような、待ち遠しいような。
なんかとっても、複雑だ。
『……どうしたんだ』
怪訝な低い声が耳に届いて、俺は現実に引き戻された。
いかん、いかん。
つい、変な妄想に引きずり込まれていました。ごめんなさい。
俺はどうにかこうにか話を取り繕って、いつもみたいに佐竹に「おやすみ」を言って電話を切った。
もちろん、例の話を篠原さんにすることを約束させられてだ。
それにしても。
「マジで言うの……? 俺たちのこと――」
ああ、どうしよう。
俺、うまく言えるかなあ。
いやもうほんと、頭が痛いよ。




