◇2◇出版社
「えっ、うそ。佐竹くんって、僕と同じ大学だったの?」
美麗さんの心づくしの料理をいただきながらいろいろ話をするうちに、柚木さんが珍しくびっくりした顔でそう言った。
「なんだか、うっすらと風の噂で、剣道部にすごい一年がいるって話は聞いてたんだけど。まさか、佐竹くんのことだったとは。世間ってのは狭いねえ」
あははは、と笑う声まで爽やかだ。
「いえ。……自分などは、まだまだなので」
対する佐竹は、ただ淡々としているだけだ。
この場にいる成人は美麗さんだけなので、出されているのは一応、ソフトドリンクだけだ。佐竹はこのあと、またすぐ部に戻らなくてはならないとかで、グラスで麦茶を頂いているに留めている。
あ、もちろん、俺の誕生日ということで、そのあと夜に会う約束はしてるんだけどね。
これはまあ、みんなには内緒の話。
(ああ。……これであと、一年だよな。)
そんな風に思うと、感慨深いのと同時にまたちょっと気が遠くなる。
どうやら目の前にいる茅野くんと篠原さんは、とっくにそういう一線は越えてるらしい。
そちらの親御さんたちも、一応「高校を卒業するまでは」って期限を切ってたらしいんだけど、それでもすごく羨ましいよ。やっぱり二年の差は大きいよなあ。
「あ、……えっと、それでね? 佐竹さん……」
と、篠原さんがちょっと聞きにくそうにしながら佐竹に向き直った。それと同時に、柚木さんもさりげなく居住まいを正す。
「内藤くんも、聞いてくれる? あの、例の本のことなんだけど」
「あ、うん。なに?」
篠原さんは柚木さんと一度目を見交わして、ひとつこほんと咳払いをした。
「実は、お二人のお話をもとにした物語の同人誌、とある出版社のかたの目に留まっちゃって――」
「え……」
「もともと、同人の方から興味は持ってくださってたみたいなんだけど、今回のイベントでも、本の売れ具合なんかを見てらしたらしくてね。僕ら、お名刺いただいちゃって」
そう言ったのは柚木さんだ。
「えええ! ほんとに……?」
うわ、びっくりだ。
そんなことって、あるんだなあ。
「う、うん……。それでね? まだはっきりはしないけど、できたらそちらで出版してみないかってお話が来ちゃってて。……それって、どう思う?」
篠原さんが困った顔で恐る恐るそう言った。
柚木さんも言う。
「もちろん、話の中でのお二人の名前は変えてあるし、エピソードなんかも増えてるし、直接のご迷惑は掛からないとは思うんだけどね。でも本来、あれは君たちの体験をもとにした物語でもあって。同人誌のレベルならまだしも、それで僕らが出版社から何某かの報酬をいただくことになるっていうのはちょっと……って、僕も考えてはいるんだけど」
そうそう、と篠原さんが頷いた。
「だからもちろん、お返事は保留にしてる。まずはとにかく、佐竹さんと内藤くんに相談しようってことになったんだよね」
「…………」
俺はなんとも答えようがなくて、そっと隣に座っている佐竹に目をやった。
佐竹の表情は、特にいつもと変わりがなかった。
その目線が自然と、俺のほうへと流れてくる。
「……内藤さえいいなら、俺は別に構わんが」
「え? いいの?」
俺はびっくりして訊きかえした。
「ああ」
「わっ、ほんと?」
と篠原さんが嬉しげな顔になった次の瞬間、佐竹はすぐに付け足した。
「ただ、ひとつ問題がある」
「え、なに……?」
ここで佐竹は篠原さんに向き直った。
「別に全部だとは言わないし、その出版社が特にどうこうとは思いませんが。このところ、あなた方のような若い書き手を食い物にする出版社も多いという話は聞いております。そのあたりの裏は、事前にきちんと取ったほうが賢明かと」
「あ、ああ……」
篠原さんが納得した顔になった。柚木さんも頷いている。
「さすが、佐竹くんだね。それは僕も思ってたんだよ。なにしろ、こちらは圧倒的に経験不足だ。相手の足許を見ることに懸けちゃ、あっちのほうが数枚どころか、数十枚上手なのは分かってるしね。表沙汰になってないだけで、ずいぶん酷い目に遭ってる人もいるって話だし」
「そ、そうなんだよね……」
少し俯いた篠原さんに、佐竹も黙って頷いて見せている。
(へえ。そうなのかあ……)
俺はそういう世界のことなんて何にも知らないから、ただぽかんとみんなの顔を見回しているだけだった。
「……あの、えっと。それでね……? 佐竹さん」
篠原さんが、じっと佐竹を見て胸の前で手を握り合わせる。
うわ、可愛い。その格好でそんなのされたら、普通の男なんてすぐにほいほい言うこと聞きそう。なんだか、お祈りしているポーズそのままだなあ。
こんな子と付き合ってるんじゃ、そりゃ茅野くん、心の休まる暇もないだろうなあ。
ちらっと盗み見たら案の定、茅野くんが不快げに眉間に皺を寄せていた。
「もし、よかったらなんだけど。お母様の馨子さんに、ちょっと訊いてみてもらえないかしらと思って。馨子さんだったら、とても顔も広くていらっしゃるし、そういう世界の裏事情とか、詳しい人を知ってるんじゃないかと思って……。実は前に、『困ったことがあったら相談してね』って、ぼく、お名刺をいただいたことがあって」
え、そうなの?
びっくりして佐竹を見たら、それは佐竹にとってもやっぱり「寝耳に水」の話みたいだった。ほとんど表情は動いてないけど、ちょっとした目の色の変化で、最近では俺にも分かるようになっている。
篠原さんはもちろん、そんなことは分からないらしくて、おどおどと困ったみたいに言葉を続けていた。
「も、もちろんそれは、馨子さんだってこういう問題のことを想定しておっしゃったんじゃないっていうのは分かっているんだけど。でも、ぼくらだけじゃあとってもそんな人脈なんかは持ってなくって……」
佐竹はじっと俯いてしまった篠原さんを見ていたけど、やがてひとつ、頷いた。
「……いえ。訊くだけで良いということでしたら、そのようにさせて頂きましょう」
「え、ほんと?」
「はい。それは、自分が口出しすることではありませんので」
篠原さんが、またぱっと顔を明るくした。
嬉しそうに、柚木さんとまた目を見合わせている。
だけど。
「……ただし、ひとつ条件が」
(……う。)
きたよ、条件が。
俺には何となく、聞く前からその条件がなんだか分かる気がした。
っていうかもうすでに、篠原さんから危なそうな情報も入っていることだしね。
そして、多分そこ、一番ネックだと思うんだよな、俺も。
佐竹は一度、ひと渡りその場にいる人を見回してから口を開いた。
「先日出されたという同人誌はもちろんなのですが。出来上がったその本を、決してあの女には見せないで頂きたい。……そこを確約していただけるのでしたら、一切、ご協力を惜しむものではありません」
「え……」
そう、それ。
まさにそれだよ。
(あれ?)
でも、なんだろう。
篠原さんが笑顔のまま凍りついてるみたいだけど。
あ、そうかと俺は合点がいった。
「あの、でもさ、佐竹――」
いや、無理だろ?
同人誌ならまだしも、その出版社との話が実現したら、それは今後、普通に書店なんかでも市販されることになるだろう。それをあの人の目にだけ触れさせないようにするなんて、そんなのまず不可能だろう。いくら相手が、ほとんど海外にいる人だって言ってもさ。
第一、相手はあの馨子さんだよ?
あ、それでもまあ、ペンネームだとか作品名だとかを伏せておけば、見つかる心配はないのかもしれないんだけど。
(でも……あれれ?)
なんだろう。
篠原さんと柚木さんが、それでもなんとなーく、意味ありげに目を見交わしてるようなのは、俺の錯覚じゃないよね……?
篠原さんが気のせいか、ちょっと顔色が悪くなって震えてるみたいに見えるんだけど。
まさかとは思うけど、篠原さん――
「ぶっは……」
と、ここまで黙って事態を見守っていた茅野くんが、たまらなくなったようにして吹き出した。
「そりゃそーだろうよ。なんでてめえのかーちゃんに、そんなモン読まれなきゃなんねえの。しかもそれ、お前らのそっち系の妄想もめっちゃくちゃ入ってんだろ?」
「…………」
篠原さんと柚木さんは、血の気の引いた顔でひたすら沈黙したままだ。
その沈黙が、事実をすべて物語っている。
(いや、それはまずいって――)
俺はちょっと、背中に嫌な汗をかいてきた。いや、佐竹にはまだ事態の本質は分かってないとは思うけど。
それでも茅野くんの台詞をうけて、佐竹の周囲の空気がさらに何度か温度を下げたみたいだった。
「おめーらはアホか。どこの世界にそんなもん、てめえのお袋に読まれてえ野郎が居んだよ。そこだけは俺、そいつにちょっと同情するわ――」
茅野くんはほとんど呼吸困難になりながら、ソファのシートをばしばし叩き、腹筋をおさえてひいひい笑っている。
「…………」
笑い死にしかかっている茅野くんを見る佐竹の目は、完全な半眼だ。
「……そうよねえ。ちょっと無理、言いすぎよねえ」
みんなを遠巻きにするみたいにして、対面型のキッチンの向こうで口許をおさえている美麗さんも、明らかに笑いをかみ殺していた。
「けど、お忘れでない? 人脈だったら、自慢じゃないけどこっちのおネエさんにだって、それなーりにあるのよん?」
え、という感じで、みんなの視線が美麗さんに集まった。
「もっとも、佐竹クンのお母様のそれよりは、ずうっとアンダーグラウンドな感じにはなっちゃうけどね?」
美麗さんはそう言って、鮮やかなウインクを投げてよこした。