○3○むかしばなし
「もちろんこれは、ぼくが知っている範囲のことだよ。だから、あとのことはちゃんと、美麗ちゃん本人から聞くようにしてね?」
そう断って、マサさんはその話を始めてくれた。
美麗さんがこの店に現れたのは、今から六年も前のことなんだそうだ。その頃は、美麗さんもまだ「美麗さん」じゃなく、普通に「茅野省吾」の名前を使っていたらしい。
そもそもマサさんの知り合いだったというその男性に連れられて、雨の中、びしょぬれでこの店に転がり込むようにしてやってきたのが、当時の省吾さんとマサさんの最初の出会いだったんだそうだ。
その頃の省吾さんは、日雇いの仕事などをしてはあちこちのネットカフェやなんかで寝泊りするっていう、とても不安定な生活をしていたらしい。幸い、そういう場合に若い人が陥りがちな、「売り」をやる代わりにどこかの男の家で一宿一飯にあずかるみたいなことにはなりにくかったらしいけど。
「ま、幸いあたしみたいなブスじゃ、なかなかそんなお声は掛かんないものね。ある意味助かっちゃったわよ」なんて、今では本人も笑っているらしいんだけど、実際そんな甘いもんじゃなかっただろうことは、ぼくにも容易に想像がついた。
どんな経緯で大学に通えなくなったのかは分からないけど、住む所もなくして、親元に帰るわけにもいかなくて、心の性別のこともあって友達もおらず、どんなに心細くてつらい思いをしただろう。きっとそれだけじゃなく、こういう街の中にいて、どんな目に遭わされることになったのか。
とにかくその時、省吾さんは怪我をしているだけじゃなく、体を壊していて、ひどく熱もあった。
マサさんはその男性に頼まれて、一緒に省吾さんの介抱をしてあげたんだそうだ。
マサさんは看病をする中で、省吾さんの体のあちこちについた色んな傷跡――それは多分、彼女の心の傷跡そのものだっただろう――を見ることになった。
その男性――東俊介さん――は、当時、近くの大学に通う苦学生だった。
どうしてもやりたい研究があってなんとか入った大学だったけれど、ご実家にはこちらでの高い家賃だとか生活費だとかを十分に賄えるような余裕はなくて、勉強をしながらあちらこちらでアルバイトをしているうちに、省吾さんと出合ったということらしい。
「最初は本当に、ただの男友達のようにも見えたんだけどね。だから、美麗ちゃんと俊ちゃんがどこでどうしてそういう仲になったのかまでは、あいにくと僕にはわからない。でも、今ではとても幸せそうにやってるよ。ここからちょっと離れたマンションに、今ではふたりで暮らしてるんだ」
そう話してくれたマサさんは、なんだかとても嬉しそうに見えた。
マサさんがこの六年、二人のことをずっと温かく見守ってこられたんだなっていうのが、聞いているだけでもよく分かった。
そこまで話を聞いたところで約束の時間が迫ってきてしまい、ぼくは丁寧にお礼を言ってそのお店を出ることにした。
「あの、……靴のお直し代は――」
恐る恐るそう聞いたら、マサさんは苦笑して言った。
「大丈夫だよ。あんなの、美麗ちゃんお得意のコケおどしなんだから。まさか彼女が未成年の君たちから、お金を取るわけないでしょう? とっくにご本人からお代は頂いているからね。安心して、渡しにいってあげればいいんだよ」
ぼくはもう、狐につままれたみたいになって、渡された紙袋を持ったままマサさんの店を出た。
そのまま、今度はまたあの小さな珈琲店に向かう。
美麗さんとの待ち合わせ場所はここだった。
「あら、時間の十分前。優秀じゃない。でも、あたしを待たせたのは減点ね」
前に座ったのと同じ奥まった席からぼくを見つけた美麗さんは、相変わらずのフェミニンな格好でちょっと片手をあげてそう言った。
「す、すす、すみませんっ……!」
ぼくはかちんこちんになってそちらに歩いて行き、すぐに持っていた紙袋を差し出した。
「あのっ、あの時は本当にすみませんでしたっ! ど、どうぞ!」
「はいはい。……ま、座んなさいな」
美麗さんは大きな手でひょいと紙袋を受け取ると、無造作に隣の席に置いてそう言った。
カウンターの向こうから出てきたあのマスターが、ぼくにお冷を運んでくる。ぼくは今回はちゃんとメニューを見せてもらって、いろいろと迷った末、キリマンジャロを頼むことにした。
ぼくの様子をちらっと見て、美麗さんがにこりと笑う。
「今日はこの前とはだいぶ雰囲気がちがうのね。素敵なニット。それ手編み?」
「えっ? あ、はい……実はそうです。こういうの編むの、ちょっと好きで。あの、どこか、変でした……?」
「そんなこと言ってないわ。既製品よりも味があって、あたしは手編みのほうが好き。糸の値段次第では、下手すると既製品の何倍もかかっちゃうのが珠に傷だけどね」
「あ、そ、そうなんですよね……!」
わあ、嬉しいな。この人、よくわかってらっしゃる。
「とても綺麗よ。色もあなたに似合ってるし」
「あ、ありがとうございます……」
そうなんだ。ぼく、けっこう編み物が好き。難しそうに見えるかも知れないけど、このぐらいだったらすぐ編める。かぎ針だけで編めるから、手軽だし。これは糸が細めだったからちょっと時間がかかったけど、慣れれば音楽を聴いたりテレビを観たりしながらでも編めるし、楽しいんだよね。
「そういう趣味もあるんだ。多趣味ね。幸せな証拠よね、なによりだわ」
美麗さんはにこやかなままだ。
(ん? でも……)
いま、「も」って言ったよね?
うああ、もしかして、ぼくのそっちの趣味、もろバレってやつなのかなあ。
まあしょうがないけどね、先日のぼくの、あの格好を見られてたんじゃ。ほづの持ってたその手の店の紙袋のロゴだって、地元の人にはひと目で分かるものだったろうし。
「……面白い子ね。なんでもそこまで顔に出しまくっちゃって、大丈夫? そんなのでこれから世の中、渡っていけるのかしら。ほんと色々心配になっちゃうわあ」
ぼくの顔をじっと見ていた美麗さんが、かすかに噴き出してそう言った。その左の手首には、前もはめていらしたおしゃれな革のバングルが嵌まっている。
「ま、穂積もそういうところが好きなんでしょうけどね。守ってあげたくなっちゃう、ってやつかしら。それはそれで、ありだわよね」
「う、うううう……」
もう、ぼくはぐうの音も出ない。きっと今、ぼくは首まで真っ赤だろうな。
恥ずかしい! なんか、女としてっていうかなんて言うか、色々負けちゃってるよなあ、ぼく。まあ、ろくに料理もできないぼくなんて、それこそ「お門違い」だっていうのは分かってるけどさ。
「で? 今日は穂積は来るの?」
なんでもない風に自分のカップを持ち上げてコーヒーをひとくち飲みながら、美麗さんがそう訊ねる。
「あ、……はい。ちょっと遅くなるとは言ってましたけど。そのうち連絡が入ると思います」
「そう。じゃ、聞きたい話があるなら急がなきゃね? シノちゃん」
綺麗にマスカラやアイシャドウで彩られた目を意味ありげにちょっと細めて、美麗さんが艶麗な感じに微笑んだ。
ほづによく似た顔立ちで、でもしっかりお化粧してこんな風に微笑まれてしまうと、なんだかお尻がむずむずしてきちゃうなあ。
「マサさんからある程度は聞いてきたんでしょうけど。ほかに聞いておきたいことがあるなら、今ならきいてあげないこともないわよ。ま、話の内容にもよるけどね」
そこでちょうどマスターが、ぼくが注文したキリマンジャロコーヒーのカップを運んできた。
「……はい。じゃ、あの……お尋ねしてもいいですか……?」
そしてぼくは、マサさんからは聞けなかった更なる話を美麗さんから聞くことになったのだった。




